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第一章 混沌は高らかに凱歌を唱う

 空が、死んでいた。
 公都シュッデンハイムの空は錆色の雲に覆われ、風は遙か異界から響くデーモン達の嘲笑を交えている。
「もう……終わりなのですね」
 レクトラント公国の神聖公女・エファナート=フォン=レクトラントは、城のバルコニーで小さく呟いた。
 腰まである黒髪は舞い狂う風で乱れ、脆いほどに高貴で繊細な美貌にも、今は疲労の影が濃い。ドレスの上に身につけた軽装の鎧は、公国の象徴たる神聖公女にふさわしい白銀の逸品であった。
 エファナートの眼下では、街が黒に飲み込まれていた。
 堅固さを誇りとした街の城壁は各所で崩壊し、技術の粋を集めた大砲や投石機も破壊されていた。すでに戦う意志を持つ兵士はなく、黒き異形の戦士達が街の通りを埋め尽くしている。救いなのは、その軍勢がまだ虐殺や放火を行っていないことだけか。
 エファナートは滅びに直面する前の公国を思い、バルコニーの手すりを強く握りしめた。

 レクトラント公国は、神聖公国と通称されるほど、神々への信仰に篤い国家であった。エファナートら神聖公女はその信仰の象徴でもあり、公国は信仰と象徴のもとに繁栄を続けてきた。戦乱が続いた時代も、オーク達が勢力を伸ばした時代にも、公国はその国力と結束力で周辺国家をリードしていたのだ。
 だが、その平和はもうない。
 一週間前、西の天蓋山脈に出現した、巨大な深紅の光球。それは、神話で恐れられた混沌神ヴァイアランスの世界と、この世界を結ぶ門だった。膨大な数の混沌の軍勢は、たちまちのうちに公国の守りを撃破し、国土を変異と荒廃の渦に巻き込みながら公都に迫った。公国の英雄・猛将フェリスも戦死を遂げ……そして今日、公都までもが陥落した。
 国がなくなるということへの恐れより、民達への悲しみがあった。多くの兵士達が死んでしまった。村々は混沌に呑み込まれ、住人は怪物と化したと言う。いつも勇ましい手柄話を聞かせてくれたフェリスも、もうこの世にはない。さらにはこれからも、いやこれからこそ、多くの血が流されていくことだろう。

「我らが女神、ディアネル様……どうか、公国にご加護を……」
 緑色の瞳いっぱいに涙を溜めたまま、エファナートは両手の指を組んだ。
 奇跡はこの世に存在する。エファナート自身も、ディアネルの修道女達も、神の力で癒しや安息をもたらすことができる。ならばどうか、この公国の破滅に、奇跡を……
「エファ姉様!」
 エファナートの背後から、妹の澄んだ声が響いた。その声に、祈りを中断させることへのためらいはない。
「ルージュ? 聖堂にいなさいと……」
 エファナートの妹、公国第二の神聖公女であるルージュレッテ=フォン=レクトラントは、幼い容貌に苛立ちを隠さず、バルコニーに立っていた。
 艶のある銀色の髪は少年のように短く切り揃えられ、その上には公女の証である冠が小さく載っている。紫色の瞳は、銀の髪と合わせて女神の似姿、神聖公女として優れている証だ。エファナートと同じように軽い鎧を身につけ、薄いニットで包まれた体は勇ましく飾り立てられていた。
「こんな所で祈っているだけで、何になるのです! わらわ達神聖公女が先頭になって立ち向かってこそ、起こる奇跡ではありませぬか!」
 指が白くなるほどに細身剣(レイピア)を握りしめて、ルージュは叫んだ。
「本丸を守る兵達に合流し、奴らを迎え撃ちましょう! さあ!」
 エファナートの手首を強く引くルージュ。必死に虚勢を張っていても、その声の震えから恐怖が滲んでいる。
 無理もない。ルージュはまだ幼いのだ。
「分かりました。私も向かいますから、そんなに力を入れないで、ルージュ」
 エファナートは立ち上がると、ルージュを落ち着かせるように、その暖かな胸で妹を抱きしめた。ルージュはピクンと背筋を伸ばすと、レイピアを強く握ったまま、エファナートの腕の中で震え始めた。
「怖くない……怖くなんかないです、エファ姉様……」
「そうね」
 妹のサラサラした銀髪を撫でながら、エファナートは目を閉じる。
「もしもの時には、ともに天に召されましょう。いつまでも一緒ですよ、ルージュ」
「……はい……」
 うつむき、身を硬直させたまま、ルージュは泣いていた。
 優秀な神聖公女たることを運命づけられて産まれたルージュレッテは、あまりに誇り高い。幼さを、弱さを、肉親にすら見せられないほどに。
 ルージュの背を優しく数度叩いて、エファナートは抱擁を解いた。妹の涙を見ないように素早く背を向け、バルコニーと部屋の境に立つ。
 エファナートは口を開かない。
 背後では、妹が懸命に涙をぬぐう気配がする。立ち上がる鎧と衣擦れの音、そして精一杯の深呼吸。
「……行きましょう、エファ姉様」
「ええ」
 ルージュの声にもう涙が混じっていないことを確認すると、エファナートは踏み出した。
 公国の最後の時へ。

***

「父上が……討ち死に…なされたのか…」
 ルージュレッテは強く唇を噛むと、伝令を下がらせた。涙は先ほど出し尽くしたと言うように、もうその瞼に涙が滲むことはない。
 エファナートも同じだ。ただ目を閉じ、短く女神への祈りを捧げる。
 公王戦死の報を受けた本丸は、臣下達の論争でたちまち割れんばかりになった。
 城は、すでに城という形を止めぬほどに攻めたてられている。
 厚い城壁に囲まれたこの本丸にも、切れ目無く戦いの音が届く。剣戟、断末魔、そして爆発するキャノンの轟音。二人の公女の前に居並んだ官僚や武官達は、延々と降伏か玉砕かを論じ続けるばかりだ。
 公王である父は、勇敢な人だった。
 城門を打ち破った巨大な竜と戦い、吐き出す黒炎に包まれて戦場から消えたと言う。
 骨まで焼き尽くされたのか、あるいはもっと悪い方法で殺されたのか、分からない。
 しかしやはり、父は最後まで公王の誇りを持ち続けて天に召されたのだろう。そして間もなく自分達も、同様に。
 悲しみも恐れも、あまり感じられなかった。ただ不憫なのは、妹ルージュレッテの生の短さだけ。
「やめろ! 愚か者どもが!!」
 エファナートが物思いにふけっている間、ルージュはその心を煮えたぎらせていたのだろう。幼い公女に大喝され、本丸の論争は一瞬で静まった。
「父上が戦死され、城も落ちようとしている。この上、あの化け物どもに降伏して、何の神聖公国か! わらわはこの身が朽ちるまで、誇りを捨てるつもりはない! 抗戦じゃ!」
 ルージュは一呼吸で言い終えると、レイピアを振り上げた。徹底抗戦を主張していた将達が鬨の声を上げ、一斉に女神ディアネルへの礼を取った。
 やはりルージュレッテは、私以上の才を持つ神聖公女だ。
 エファナートは淋しげに微笑むと、妹の脇に立って口を開いた。
「我らにはディアネル様のご加護があることを忘れてはなりません。混沌の神ヴァイアランスに屈することなど、公国の恥。最後まで奇跡を信じましょう」
 エファナートのおだやかな声に、本丸の一同が頷こうとした、その時……
 凄まじい音を立てて、広間の扉が開かれた。
 すわ新たな伝令かと、皆が振り返る。だが、
「奇跡など起こりませんわ! ……我らがヴァイアランス様の前に、女神など無力!」
 ルージュレッテ以上に凛としたその声は、明らかに兵卒のものではなかった。
 はじめエファナートは、それが光っているのかと思った。しかし、そうではない。華だ。その人物の持つ凄まじいまでのカリスマと威厳が、見る者の目をくらませているのだ。
 くるくると美しく縦に巻いた、深紅の髪。貴族、いや王族を思わせるほどの高貴な美貌。頭部から生えた二組の角は、彼女が混沌の使徒であることを示している。
 美しい混沌の魔将は、彫刻のように整った裸身を惜しげなくさらしながら、公女達へまっすぐに歩き出した。
「貴ッ様!!」
 正気を取り戻した一部の衛兵達が、ハルバードを振りかざしながら魔将に走り寄った。
 一瞥。
 魔将が視線を動かし、わずかに左手を振るったかと思うと、衛兵達は鎧ごと切断されて絨毯に散らばった。
 凄まじい血の量と匂いに、ルージュが堪らず口元を押さえている。その惨状を気に留める風もなく、魔将は二人の前に立ち、艶然と微笑んだ。
「貴方達が噂に聞く神聖公女ですわね。……私はザラ=ヒルシュ。今回の軍を率いる司令官の……一人、ですわ」
 ザラと名乗った美女は、「一人」の部分で少し眉をひそめながら、皮肉なまでに優雅な礼を取った。
 間近で見ると、ますますその美しさが分かる。切れ長の目には深い知性が秘められ、紅い唇は艶やかに濡れている。亡くなった母上よりも、自分達姉妹よりも、美しい。そう思った。
「私はレクトラント公国の神聖公女、エファナート=フォン=レクトラントです」
「わ、わらわは、レクトラント神聖公国の神聖公女、ルージュレッテ=フォン=レクトラントじゃ! ザラと申したか…将が単身敵陣にいるなど……どういうことじゃ!?」
 ルージュレッテが声を張り上げると、ザラはほほほ、と顔の前に手をかざして笑った。
「むしろ、本陣に敵がいるということの重大性を認識した方がよろしいのではなくて、ルージュレッテさん? はっきり言わせていただきますけれど、城の兵達は全て、私の魔力で腑抜けておりますわよ」
『!』
 その場に戦慄が走った。
 まさか……まさか、もう、負けていると言うのですか? エファナートは叫びを心で押し殺しながら、ザラに問いかける。
「では、ザラさん……すでに我らの城は陥落し、貴方は勝利を宣言するために……ここへ来たと……」
 ふと耳をすませば、本丸は異様な静寂に包まれている。鬨の声も、キャノンの爆音も……あらゆる戦いの音が、消えているのだ。
 エファナートがそのことに気付いたのを知ってか、ザラは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「そういうことになりますわね。もっとも、あの人が来るまでは、戦後の交渉を始めるわけにも参りませんけれど……」
 ザラがロールした髪をなびかせながら振り返るのと、扉に新たな人影が現れるのとは、同時だった。
「ごっめーん! 遅れちゃったよぉ。やっぱりダメだねえ、どこでも出せるってなるとついついサカっちゃって……」
 その声は、せいぜいルージュと同じか、少し上程度の年齢に聞こえた。
 身長もそう変わりない。だが混沌の鎧に包まれた褐色の体は筋肉でうっすらと覆われ、驚くほどに巨大な乳房を揺らしている。この少女もまた、混沌なのだ。
「当然ですわ! 奴隷を連れて歩くルキナさんに遅れをとるほど、私がのろまだと思いまして?」
「にゅふふ。まあ、それはそうなんだけどねー♪」
 ルキナと呼ばれた少女は、薄紫の前髪をかき上げながら愉快そうに笑った。
「ほぉら、フェリ! キミがちゃんと歩かないから、ボクはカメさんみたいに遅かったんだぞぉ!」
 ルキナは芝居がかった仕草で怒りを表すと、片手に握っていた銀の鎖をグイと引いた。
「ご、ごめんなさい、ルキナ様ぁ……俺、俺……」
 哀願するその声は、エファナートが聞き慣れた声だった。
 はっ、はっ、と犬のように荒い呼吸をしながら、公国の女将軍フェリス=シュティットベルガーは、四つん這いで赤絨毯の上を這っていた。一糸まとわぬ体に、着けるのは革の手袋とブーツだけ。ルキナが握る鎖はフェリスの尻の辺りでどこかに消え、絨毯の上にはポタリ、ポタリと白い粘液が滴っていた。
「フェ…リ……」
 ルージュが息を詰まらせ、レイピアを取り落とした。
「フェリス! フェ、フェリスを放して下さい! なぜこんな辱めを!?」
 訳の分からない嫌悪感に襲われながら、エファナートは叫んだ。男女の睦言については朧げにしか知らないエファナートだが……このフェリスが、女として最悪の屈辱を受けていることくらいは分かる。
「ははは。「はずかしめ」だってさ。じゃあ放してあげよっか、フェリス?」
 ザラの側までフェリスを引き回していたルキナは、公女の言葉を聞くと飼い犬に問いかけた。するとフェリスはビクンと震え、慌ててルキナの脚にしがみ付く。
「そ、そんな! ヤ、イヤです、俺、ルキナ様ぁ! お願いです、一緒にいさせて下さい!」
 かわいいかわいい、と賞賛しながら、ルキナは哀願するフェリスを大きな胸で抱いた。フェリスは途端に安心した様子を見せ、赤子のようにルキナの胸に頬を埋めている。
「な……」
 理解できない事態に遭遇して、公女姉妹も居並ぶ臣下達も、声もなく戦慄していた。
「どうやら貴方の国の将軍は、辱めを受けるのが大好きなようですわね。ふふふ」
 ザラの言葉を聞いたルージュが、血が滲むほどに唇を噛んでいる。エファナートは思い出していた。ヴァイアランスは恐るべき破壊者である以上に、人を惑わし堕落させる誘惑者だという神話を。城の兵達は幻惑され、あのフェリスですら……
 パン、パン、パンと湿った音が広間に響いて、エファナートの視線は再びルキナとフェリスへ注がれた。
「………?」
 フェリスが犬のような姿勢でいるのは変わらない。しかしその背後ではルキナが膝立ちになり、さかんに自分の腰をフェリスの尻に叩きつけている。
「は、はあぁっ! ル、ルキナっ…様……俺、や、こ、こんな所でぇ……はくっ…!」
 フェリスは顔を真っ赤に染めて、ルキナの腰が動くたびに悲鳴を上げていた。
「や、やめろ! この上わらわ達の前でフェリスを拷問にかけて、どうしようというのじゃ!? 卑怯者、下衆どもめっ!」
「そうです! 交渉なら言葉だけで済むはず……お止めなさい!」
「あはははは」
 公女達の叫びを集めながら、ルキナは失笑していた。
「ホントに知らないんだ、何にも。やっぱ公女様だねぇ、うんうん。まあいいや、これが何なのかは後でじっくり教えてあげるから、その交渉に入ろうよ♪」
 フェリスの尻にゆっくりと腰を押しつけながら、ルキナは人差し指を立てた。フェリスは低い呻きを洩らし、絨毯を掻きむしっている。
「くッ…」
 公女達は身を裂かれる思いでフェリスから目をそらし、混沌の魔将達を見据えた。
「何を望むと言うのですか」
「君達かな」
 エファナートの問いに、ルキナはあっさりと応じた。
「やっぱりボクの見立て通りだね。ボクらは君達神聖公女が欲しい。イヤなら、この公国を全部焼き払って、人間も一人残らず…ああ、女の子以外は、だけど……デーモンのエサにしちゃうからね♪」
「な、何ですって…?」
「わらわ…達…?」
 エファナートとルージュレッテは、自分達の胸を手で押さえながら、後ずさった。
「そういうことになりますわね。貴方達の身柄か、公国の消滅か、どちらかですわ。貴方達が軍門に下るなら、公国は存続させてあげてもよろしくてよ」
 優雅に髪をかき上げて、ザラは微笑んだ。
 その様に怒り心頭に達したのか、数人の将達が叫びを上げる。
「ふ、ふざけるなッ、貴様ら! 公女様は我ら公国の象徴、我ら一兵となりても、公女様を…」
「うっさいなあ、バカ」
 ズドン、と雷のような音が炸裂した。次の瞬間には、ルキナの手に人間の背丈ほどはあろうかという巨大な戦斧が握られ、右側一列の群臣は血と肉のジャムに変えられていた。
「ボクはそこの……ええと……公女…」
「エファナートさんとルージュレッテさんですわ」
「うん。エファとルージュに話してるんだ、口を出したら殺すよ。そもそも、フェリスのおまんこを味わってる最中に、むさい男の声なんか聞かせないでよね…」
 ルキナの凶行を目にして、エファナートは認識した。やはりこの二人は混沌の怪物なのだ。自分達が意に添わなければ、なんの躊躇もなく公国民を皆殺しにするだろう。
 エファナートは息を呑むと、隣にいる妹を振り返った。ルージュレッテも同じことに気付いたのか、蒼白な顔で足下を見つめている。
「わ、私だけではいけませんか?」
「姉様!」
 エファナートは妹の制止を振り払って、ザラとルキナの前に駆け寄った。
「私はレクトラント公王の長女、神聖公女としても長に当たります。貴方達が勝利の証として神聖公女を必要とするなら、私だけで…」
「もぉ……ん……く……はぁ。分かってないなあ。エファは…」
 ルキナはフェリスの尻を抱えて溜め息…いや、妙な吐息と震えをしばし続けると、フェリスの背後から立ち上がった。ずるり、という音がして、フェリスの中から濡れ光る拷問具…?…芋虫のような形をした奇怪な器官が二本も抜ける。
 ルキナはザラの隣に立つと、値踏みするような目でエファナートを見つめた。
「うーん。どっちもいいなあ。城攻めはザラがやったから、ザラ、選んでいいよ」
「あら、光栄ですわね。ええと…エファナートさん。見れば解ると思いますけれども、私達は二人おりますのよ。私の言っている意味、分かりますわよね?」
 魔将達の視線が姉妹双方に注がれ、エファナートは絶望した。
「さて、交渉の余地はナシ。どうする? ボクらは国民皆殺しトライアルでもいいケド」
 城と共に滅びる覚悟はできていた。
 だがそれは、公国そのものが消滅してしまうという前提があっての話だ。
 自分達と引き替えに公国が助かる……そんな事態になるなど、考えてもいなかった。
 公国の栄光、神聖公女の誇り、ディアネル様の名誉。全てをそれだけのために生きてきた神聖公女エファナート……しかしそれが、生き残った民達全ての命と引き替えにするほど、大事なものだと言うのだろうか?
 エファナートは緩慢な動きで、妹を振り返った。ルージュレッテは幼い容貌に悲壮な決意を刻み込んで、小さく、頷いた。
「分かりました。それで公国が救われると言うなら……」
 公女姉妹は混沌の魔将の前にひざまずき、肩を震わせながら礼を取った。
 地獄はこれから始まるのだということも知らずに。
 

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