重々しい鐘の音が、決戦の時を告げていた。
祭りの明けたヴァイアランス神殿の中には、うって代わって張り詰めた空気が流れている。
そう、キスティオとギルメイレンとの戦いが行われる日が来たのである。
だが…当のキスティオは、神殿の中庭でお気に入りの子犬と戯れていた。
キスティオは子犬が好きだ。ふわふわと柔らかくて、元気に飛び跳ねて、おっかけると面白いからだ。だっこするとそのうち寝てしまったり、たまに何かが気に入らなくて吠えたりするのも、楽しい。
「いぬ〜、今日は何してあそぼっか?」
ぺろぺろと頬を舐める子犬を抱き締めて、キスティオは芝生の上をごろごろと転がった。
「キスティオ様〜ぁ、キスティオ様、どこですか〜ぁ?」
「うにゅ?」
キスティオはピタリと回転を止めた。渡り廊下を奇妙な動きで歩いてくるのは、ゴルゴンの奴隷パイアである。パイアは鮮やかな緑色の蛇髪を脚代わりに、全身拘束具姿で中庭に飛び込んできた。
「キスティオ様〜ぁ、いましたですぅ…はあはあ。えっと、あの、皆様、お探しですよ〜ぉ」
「え、なんで?」
「だって、今日はキスティオ様の対戦の日じゃないですか〜ぁ!」
「対戦ってなんだっけ…」
「ザラ様のところのギルメイレン様との対戦ですよぉぉ」
必死に説明するパイアを前にして、キスティオは万年酔っぱらった頭でしばらく考えた。そして、一つの結論に達する。
「めんどくさいからヤだ。犬と遊ぶ」
「キスティオ様〜〜ぁ!」
パイアが、困っているのか喜んでいるのか複雑な叫びを上げたその時である。
「キスティオ! ここにいたのか!」
飛び込んで来たのは、鞭のように鋭い声。巨大なパワークローもりりしき、副官ギルディアの叱責であった。
「ほえ? ギルディアだぁ。ごめんよお、怒らないでよお」
自分がなぜ叱られているのか分からないが、とりあえずキスティオはいつもの癖で謝った。するとギルディアは美しい眉をますます吊り上げて、その巨大な手でキスティオを犬ごと持ち上げた。
「今日は大事な対戦の日だろうがっ! ルキナ様の勝利のために身命を賭して戦うべき所を、何をのんきに……パイア、お前も何をしていた!?
さっさと連れてくればいいものを…」
朝からよほどストレスが溜まっているらしく、怒りのとばっちりをパイアにまでぶつけるギルディア。パイアは反射的に見をすくめ、
「あ、あの、いえ、私……」
言い訳をしかけて、ふいと押し黙った。
「どうした?」
「あ、いえ……そうなんです、私がキスティオ様をお引き止めしていたんです〜。パイアは悪い奴隷です、お仕置きしてくださいませ〜ぇ」
ギルディアにすがりついて、パイアは拘束された体をもじもじとくねらせた。
アタシってパイアに引きとめられていたのかなー、とキスティオは考える。分からない。分からないことはギルディアに聞けばいい。
「…そうだったっけ?」
「私に聞くな」
お仕置きをねだるパイアを巨大な左手であしらっていたギルディアは、何かをあきらめたようにため息をつくと、手に握ったキスティオを肩に担ぎ直した。
「もういい、お前に色々期待した私が馬鹿だった。何でもいいから、これから連れていく場所で頑張っていやらしいことをしろ。それとパイア、観戦中に抱いてやるから、お前も来い」
「はい、はいです〜ぅ」
「ふにゅ?」
結局の所、自分の置かれた状況をまったく理解せぬまま、キスティオは闘場まで運ばれていくことになったのだった。
***
ギルメイレンは、花が好きだ。
花は「きれい」。
ざら様や、ざな様も「きれい」。「きれい」なものは好き。
だからギルメイレンは、花が欲しくて、部屋に持ち帰る。ところがそうすると、花はしばらくして枯れてしまう。ざら様やざな様は、枯れないのに。
ギルメイレンは今日も陣幕の中庭に咲いた小さな花をつみ、どうすれば花を枯らさないでいられるかを考えていた。
ざな様は、かんたんだと言う。すぐに不思議な機械を作って、枯れない花を出してくれた。でも、それはギルメイレンの好きな花とは少し違った。硬くて枯れない、作りものの花。
ギルメイレンは、できれば、こうして土に咲いている花が欲しい。
「…花が好きなの?」
背後から声をかけられて、ギルメイレンは表情も変えずに振り返った。
花を踏みつけない立ち位置で微笑んでいるのは、エルフの戦士シャルレーナであった。
もっともギルメイレンには、「エルフ」という種族の、同僚だということ以外、これといった認識がない。
しばし小首をかしげた後、ギルメイレンは無言でうなずいて肯定の意を示した。
「そうなんだ。私も好きだよ。森を思い出すから」
ギルメイレンの脇に腰をおろしたシャルレーナは、優しく花を撫でながら言った。その様子が自分を世話してくれるざな様に似ていて、ああシャルレーナは花が好きなのかと、ギルメイレンは納得した。
「しゃるれーな、おれ……」
「?」
耳をピクンと動かして、シャルレーナが顔を上げる。
「おれ、花、好き。でも、持って行くと、花、枯れる。どうすれば、いい?」
そうだねえ、とつぶやくと、シャルレーナは膝を抱えて空を仰いだ。
「好きなだけじゃ、ダメなんだよ。花が好きだから摘んでしまいたくても、花が枯れないように我慢する。花の気持ちになってみる。そういうことかな」
「花の、気持ちに、なる?」
説明してくれるザナタックがいないギルメイレンは、シャルレーナの言いようを理解できず、丸い瞳をぱちくりさせた。
「ホントは、好きだから自分だけの物にしたいなんて、いけないんだよね。でも、欲しい。悪いって分かっていても…相手が傷つくことが分かっていても、欲しい…そんなことが……あ、ゴメン。ギルメイレンには難しいね」
「うん、むずかしい」
ギルメイレンは素直に答えると、その巨体を立ちあがらせ、彼方より聞こえる鐘の音に耳をすました。
「時間だね、急がなくちゃ。闘場の場所は分かる?」
「うん」
ギルメイレンはもう一度うなずき、中庭を出るべく歩き出した。
そして立ち止まると……右手につまんでいた花を触手に乗せ替え、そっと花の茂みの中へと戻した。