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「不覚。今日は、”ばれんたいん”であったか」
神妙な声でつぶやきつつ、朝影(あさかげ)キリカは応援団部室の扉を開いた。
いつもの硬派な学ランに、その下は体操服という出で立ち。
だが両手には、先ほど下級生や同級生に渡された、大量のチョコレートの箱が抱えられている。
「なぜ、こんな、甘くて茶色いモノを渡したり渡されたりするのだ。面倒な……」
大量のチョコレートを、部室のテーブルへと無造作に放った。
キリカは応援団長であるというだけではなく、戸隠忍者の流れをくむ『朝影衆』の若き頭領である。
15歳まで山中の忍び学校で修行に明け暮れたキリカにとって、現代日本の流行はまったく未知のものだった。
初めてチョコレートを渡された時は、兵糧丸かケモノに食わせる毒薬か、分からなかったほどである。
1年生2年生と学年を重ね、ようやく”ばれんたいんでー”とチョコレートを理解したが……
やっぱり、キリカにとっては鬱陶しいだけの行事であった。
「オスっ! 失礼しまっ……あ! 団長、凄いッスね!!」
部室に飛び込みざま、チョコレートの山に釘付けになったのは、一年生の応援団員・琴吹ゆーのであった。
だぶついた学ランを小柄な体で着込み、レイヤーボブの髪の下には凛々しくハチマキが巻かれている。
こうした姿で登校してくるのも、応援団員ならではだ。
「先輩達から、噂では聞いてました。団長モテるから、バレンタインには凄い量のチョコもらうって!」
キリカは何か返そうかと思ったが、言うべき言葉が見つからず、小さい溜息だけをついた。
「わあ、これ、ゴリバのチョコじゃないッスか〜! どっかの王室御用達とかで、一粒何百円とかするんですよ! 凄いなあ、凄いなあ!」
愛らしい包装紙や高級そうな紙袋の山を眺めながら、ゆーのは自分がプレゼントをもらったかのようにはしゃぎ回っていた。
「何か欲しいものがあったら持って行け。こんなには食べきれない」
「え? でも……悪いッスよ〜。みんな、団長が好きでプレゼントしたんですから」
「そういうものか?」
キリカは少し後ろめたさを覚えて、ゆーのに振り返った。
「そう! フタナリも半分は女の子なんだから、そういう気持ちがあるんですよぉ。団長は、誰かにあげないんですか?」
「!」
その言葉を聞き、キリカは息を詰まらせた。
そうだ。自分が渡すというのは、思いつきもしなかった。
***
朝影キリカは、ビルの壁面を一気に駆け抜けた。
窓ガラスの桟を、壁材の割れ目を足がかりとし、鍛え抜かれた忍びの脚術で重力を引きちぎる。
ガラスに映るのは、忍び装束のキリカの姿。学ランと体操服を脱ぎ捨て、「朝影衆・頭領」として活動する時の衣装だ。
鎖帷子で最小限の防備を施した以外は、鍛え抜かれた両性具有者の肢体を剥き出しにした、体術用の装備である。
その鏡像に、5本の光が走った。
飛来する金属の音。キリカは忍者刀を抜きざま、背後から迫る3本の苦無を打ち落とす。2本は窓に突き刺さり、ガラスに蜘蛛の巣状のヒビを描いた。
「厳岳(げんがく)、戦太夫(せんだゆう)っ、邪魔をするなっ!!」
キリカは壁に対して”直角に”しゃがんだまま、背後から迫る刺客達へと振り返った。
刺客。否、キリカが頭領を務める朝影衆に属する、自分の部下達に。
「そうはいきやせんぜ、お頭!」
身長2m超。巨人が使うような巨大鎖鎌を手にした禿頭の筋肉男が、野太い声で応える。
朝影衆中忍・浅馬厳岳(あさま げんがく)。
「先代の命には、私たちも逆らえないのですよ。おとなしく、ソレを渡して下さい」
相棒とは対照的に細面。片手に苦無、片手にノコギリ状の忍び武器”しころ”を構えた男が続いた。
同じく中忍の、曲屋 戦太夫(まがりや せんだゆう)である。
二人の中忍もキリカ同様ビルの壁面に「立って」、挟撃を狙うのかジリジリと間合いを変えていた。
新御空崎市の中心部にある駅前。大型デパートの、ガラス張りの壁面。遙か眼下の通行人達は、頭上で死闘を繰り広げる忍者達に気付く様子もない。
キリカは忍者刀に手をかけたまま、双方の力量を踏んだ。
仮にも朝影衆頭領、中忍の2人ごときに負けるはずもない。
だが、それは相手を敵として虐殺する場合、の話だ。
厳岳の首を一刀で切り落とし、背後から迫る戦太夫の武器を刀で受け、受けると同時にその喉仏を左手で握りつぶすことができる。
忍びの任務であれば、部下でも殺す。だが、今は殺せない。殺さずに勝つのは難儀だ。
恐らく、そんなキリカの考えも読んでいるのだろう。二人はゆっくりと間合いを詰めつつあった。
「お頭ぁ! 代わりに、野沢菜を用意しときやしたから! さァ、早くそいつを渡しちまって下さいよ!」
説得を続けつつも、厳岳は巨大な鎖分銅を回し始めた。
「そうです。早くお頭、その……」
戦太夫が5本の苦無と”しころ”を十時に構える。
「”ちょこれいと”を!!」
二人の視線の先には、キリカが腰からぶら下げた、巾着が。
今この、忍者達が張り付いているデパートで買った、高級なチョコレートが入っている。
買うのが恥ずかしくて、一時間もウロウロした末に手に入れたモノだ。
部下達には渡せぬ。
「このっ、うつけどもめがっ!!」
キリカは刀を抜かず、素手のまま壁面を蹴った。
それに反応して、厳岳が鎖分銅を伸ばす。
キリカはその巨大なクサリを駆け登り、反転、足を離して落下した。
重力に引かれるまま、下へ。
身を丸め、全身の力を引き絞ってから、爆発的に蹴りの体勢を作る。
厳岳の無骨な顔に、キリカのつま先が突き刺さった。
***
「やむやむ〜!! チョコ、おいしー! 日本では、みーんな甘いモノくれるの、ケリーちゃんとってもいい思いマス!」
両手にべったりとチョコをつけ、OTC(音神チアリーディング部)チアリーダーの一人・ケリー=チェンバースは、ちびっこみたいに指先を舐めていた。
「食べすぎちゃダメデスよ〜。取っておいて、ちょとずつ食べるデス♪」
同じくOTCに属するベティ=アレクサンダーは、慣れた仕草でケリーの散らかし現場を片づけながら、朗らかに笑った。
ここはOTCのロッカールーム。放課後もまだ早く、メンバーもベティとケリーしか集まっていない。
今日、バレンタインデーは、音神学院にとって一大イベントであった。
なにしろ、生徒全員が両性具有者であるこの学園。「女性が男性にチョコをあげる」という日本式のバレンタインでも、全生徒が全生徒にチョコを渡しうる環境なのだ。
もちろん、学内でもスター格のOTCメンバーが、チョコをもらわないはずが無かった。
ベティの片づけに従い、ケリーの鞄はたちまちチョコの包みでいっぱいになった。カラフルな包装紙に、熊のぬいぐるみ付きチョコ――幼げなケリーの気を引こうと、どれも可愛らしいチョコばかりだ。
ベティ自身の鞄にもチョコが詰まって、入りきらず、後輩がくれた手提げ袋にもイッパイにしまわれていた。
「ベティお姉ちゃんも、食べよおよぉデスよぉ。Yummy!」
口の周りまでチョコだらけにしたケリーが、新しく開けた包みからチョコを一粒取り出し、ベティへと差し出した。
「練習の後にしましょう。疲れてる時の方が、おいしーデスよ」
「練習の後にも食べるデス! もぐもぐ……」
ケリーはにこにこと無邪気な笑みを見せている。
「仕方ないデスね……じゃ、こっちからもらいマス★」
ベティはケリーのふっくらした唇に自分の唇を重ね、小さく突きだした舌でチョコを舐め取り始めた。
「んっ……」
ケリーが大きな瞳を潤ませた。はしゃぎ声が、熱い期待を込めた吐息に変わった。
一歳年下で、ずっと妹のように触れ合ってきたケリー。こんな過密なスキンシップも、幼い頃からセックスを交わしてきた仲ゆえのものだ。
唇を離すと、ケリーは名残惜しそうに短い舌を突きだし、少ししてから「ふぅ」と息をついた。
「ベティお姉ちゃん……」
ケリーの声は、ベティに愛撫を求める時のものに変わっていた。
時と場所によっては、このままケリーを抱いてしまう所だが……今はロッカールーム、これから部員達がどんどん増えてくる所だ。
「後で、ネ」
「んぅ……Yes」
ケリーも状況は分かっているのだろう。拗ねたように視線を逸らして、ベティのふとももを指でつんつんと突いた。
「OH、それじゃあ、ベティお姉ちゃん!」
ケリーはくるりと表情を変えると、鞄をごそごそ、せっかく片づけたチョコを再び散らかしつつ、何かを取り出した。
「ケリーちゃんから、ベティお姉ちゃんに、プレゼントデス★ みんなチョコだから、ケリーちゃんはウサギさんにしました!」
「Nnn...サンキュー、ケリー!」
ベティは白いウサギのぬいぐるみを抱きしめると、再びケリーにキスで応えた。
みんながくれた、チョコレート。
ケリーがくれた、プレゼント。
しかし、ベティにはまだ、気になることがある……
キリカ。
つき合っているとは言っても、誰にも秘密。お互い、他に体を許す相手がいる仲だけれど。
キリカは「硬派」で、流行やイベントに関心がないけれど。
けれど、もしかすると……
ケリーの甘やかな口づけを味わいながら、ベティの胸はきゅうきゅうと、優しい痛みに締め付けられていた。
***
「先代は何と命じたのだ! 答えろっ!」
駅前通りのアーケード、その屋根の上。
キリカの厳しい声を浴びたのは、曲屋戦太夫である。
素早い動きでキリカから逃げ続けていたが、明らかに息が上がっているのが見てとれた。
キリカが近づくにつれて後ずさり、後ずさりながら問いに答え始める。
「くっ……。お頭もそろそろ色気づく頃――南蛮の風習に毒されるような事があれば、”ちょこれいと”を奪い、「朝影漬け物祭」で使う野沢菜でも持たせて置け、と……」
「あ、あのっ、分からず屋めえ!!」
キリカは”先代”への怒りを込めつつ、右の縦拳を戦太夫に叩き込んだ。
凄まじい打撃音。
弾け飛んだ戦太夫の体が錐もみ三度、コンビニの「ペットボトル」のゴミ箱に突き立った。
通行人が悲鳴を上げ、空のペットボトルが大量に転がり落ちる。
車道を挟んで向かいの通りにいたキリカは、道を飛び越え、気絶した戦太夫を抱え上げた。
もう片方の肩には、やはり気絶した厳岳の巨体が、軽々と担がれている。
「通行中の諸氏。騒擾(そうじょう)つかまつった。御免」
両肩に中忍を担いだまま、キリカは再びアーケードの上まで、飛び上がった。
唖然とした通行人達は、声も出さない。
――少々やりすぎた。
人目の無いビルの屋上まで登り、二人の部下を足下に転がして、キリカは思う。
世界の可能性が揺らぎ、エルフや獣人といった種族が現れ、ときおり化け物や超人犯罪者が世を騒がす現代。
とはいえ、町中で朝影衆3人が乱闘というのは、とても誉められた事態ではない。
さすがに中忍2人、手加減して気絶させるまでには、手間がかかった。
それもこれも、”先代”のせいだ。
代々ふたなりが頭領を務める朝影衆。キリカにさっさと跡目を譲った、あの、いまいましい、キリカの母……
キリカの意識が、一瞬だけ過去に向いた。
「わうン」
気付いた時には、目の前に犬がいた。
顔に頭巾、首に長いエリマキをした、雑種犬。
キリカの家で飼っている、朝影衆の「忍犬」ソバ丸である。
愛嬌のある顔だが、見る者が見れば、全身に施された厳しい訓練の跡を見抜くだろう。
「ソバ丸……」
「わううン」
次の瞬間、ソバ丸の口から、業火が噴き出した。
反射的に飛び退いたキリカの足下で、炎がビル屋上のコンクリートを焼く。
「貴様ソバ丸っ、飼い主に牙を剥くかっ!!」
「わうン、わうン〜〜」
ソバ丸はサインペンを取り出して顔に”八の字眉毛”を描くと、いかにも困ったように首を振った。
「こいつも、先代に……」
そんなことだろうと感じはしたが、里から連れてきた飼い犬にまで裏切られたかと思うと、心底腹が立つ。
「ええい、貴様も板挟みで苦しかろうが、それとこれとは話が別っ! 歯を食いしばれっ!!」
キリカは鉄拳の一発で楽にしてやろうと、愛犬に拳を振り上げ……
「熱……?」
太ももを伝う、なんだか熱いものに気付いた。
「あ」
「わうン?」
腰に付けた巾着に、火がついている。
”ばれんたいんでー”に、あいつに渡そうと思っていたチョコレートが、入っている巾着。
その燃えた破れ目から、トロトロトロトロと、焦げ溶けたチョコレートが流れ落ち――
***
「最後の、一個だったんだぞ」
ビル屋上に吹く2月の風は、冷たい。
「ゴリバという、どこかの国の王室御用達のチョコレートだ。値段は高いが、このくらいでなくてはイカン、と級友に言われたのだ」
風を受けて、大男と優男と犬が、しょんぼりと肩を丸めている。
「なにも……溶かさなくても……」
車座の真ん中では、キリカが体育座りをしていた。
「お、おいソバ丸、おめェがだなァ」
「わうン、わうわう〜ン」
「犬のせいにしても仕方ないでしょう。お、大人げない……ですよ」
二人と一匹は死を覚悟しつつ、頭領の裁きを待っていた。
「…………ぐす」
キリカが、涙目になっている。
それに気付いた瞬間、二人と一匹は深い罪悪感に駆られた。
「のっ、野沢菜! そう! 野沢菜ならバケツいっぱいにありますけぇ、ほう!」
「わう! わううン!」
「ちょ、ちょこれいとォは、甘くて固いし、茶色いですし、ほら、相手も飽きておりますよ! つ、漬け物なんか……しょっぱくて……柔らかいですし……」
「……………」
2月の風は、冷たい。
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