ヴァイアランスの章・1
 (玄魔&Rebis)



《……ソ、ンモウ率98%。シュウ復不可能。離ダツ不カ能。生還リツ5%圏内デノ遂行達成フカ能。
 ………結論。自爆シークエンス起動》


「じば……えっ?」

 ノイズの多い、聞き取りづらい機械音声が、メランの耳から脳に達して理解されるまで、少しの間があった。そして、それが済んだ時にはもう遅かった。

《3秒前》

 灼炎剣を柄まで打ち込まれた〈心臓〉の裂け目から、ガスとも閃光ともつかない黒い色をしたものが噴き出してきた。それが二筋、三筋と増えるにつれ亀裂も広がってあっという間に〈心臓〉の全面を覆い尽くす。

「……ウソだろ!?」セルージャは叫ぼうとしたが、舌がもつれて上手く言葉が出なかった。

 亀裂が一斉に広がり、球形の〈心臓〉が一回り膨らんだように見えた。


《2秒》


【押さえ込めぬか!?】
〔無理だ!!〕
∴そんな力は残っていない∴
「せめて守護者達だけでも……」
〈もはや遅い!我等自身の存続すらおぼつかぬ〉
「……ここまで来て…………っ!!」


 魔神達のざわめきが、ひどく遠くで聞こえた。


《1ビョウ》


「……ルキナ!
 ザラ!
 メリン!!
 メラン!!
 セルージャァァァ!!!」


 ダンジョンマスターの叫びが、今やがらんどうとなった迷宮に響き渡る。
 悲痛な声だった。これほどまでに感情を露にした主の声を聞くのは初めてだった。最後にこれを耳にできただけでも、守護者の一生として悔いはない。

(……もっとも、ルキナの奴はどう思ってるんだかな)

 セルージャの脳裏に最後に浮かんだ思考はそれだった。


《ゼロ》


 ごう……

 卵が割れるように、〈心臓〉が弾け、中から質量を持った虚無が溢れ出した。



 …
 ……
 ………



 セルージャは生に渇かない。
 戦うべき戦を戦い、倒すべき敵を倒し、愛すべき人を愛してなお何ものかに執着せねばいられないほど、セルージャは弱くはない。
 セルージャは詩を好まない。すべてを嘆じ、すべてを謳い、すべてを一幕の物語と笑って一杯の酒に溶かせるほど、セルージャは強くはない。
 だからセルージャ=ガレリア=ストラストヴァロスは、素直に、いくらかの驚きをもって、ただ感じた。

 ……消滅する間際というのは、これほど長く感じるものなのか……

 緩慢に。虚無は、セルージャの鼻先に触れようとしていた。
 そう、ひどく、ひどく緩慢だ。いつまでも、それは自分を呑み込まない。
 ならば。その瞬間まで精一杯、あいつのコトを思い浮かべてやろう。
 セルージャは幾夜も触れた魔メイドの白い肌を思い、目を閉じた。

 全身が、暖かい湯に浸っているような気がする。死を…消滅を前にしても、少しの恐れもない。
 それどころか、もの凄い欲情と共に下半身に血が集まり、ボロボロの衣服を押し上げているのを感じる。
 あまりの滑稽さに、セルージャは口元だけで笑って、目を開いた。



 虚無は、本当に静止していた。



 黒…一辺の光沢もムラもない黒い球体が、セルージャに触れる寸前で凍りついていた。
 セルージャは本能的に虚無から飛びすさり、背後を振り返った。
 結界球の中では、守護者達があっけにとられた顔をして、自分と同じように、不意に訪れた劣情に戸惑っていた。

 魔人は、遙か遠くを見据えるように、顔を天に向けていた。

 パルボを囲む諸神達は、何かに納得したかのように、静かに虚無を見つめていた。

「お…おい…どうした…どうしたっていうんだよ!?」

 神力と咆哮が轟いた戦場から一転、耳が痛むほどの静寂に耐えかねて、セルージャは叫んだ。

 全てが静止した空間の中、白衣と流麗な青の髪がうねり、魔神達の中からグレート・ノーザンが歩み出た。

『いらしたのだよ、(あのお方)が。見るが良い』

 グレート・ノーザンの目を隠すガラスが炎と燃え、白衣の姿は一瞬にして広大な光と化した。溢れ出る無数の光のシルエット…美しいアンドロギュノス達の姿……大いなる北の魔王の神力そのものが、空間を満たし、その場に居合わす者に<神の視点>を与えた。



 そう、<神の視点>、次元を越えて見渡す魔神の視野があったなら、その光景はこう見えただろう。

 迷宮の存在する世界を中心に、砕け、破壊され、鈍色に染まった次元の海。
 その中に、果てもなく巨大な一人の両性具有者がいる。

 崩れ果てた迷宮をその偉大な子宮に納めて。

 一呼吸ごとに、幾億の機動破片を呑み込んで。
 一呼吸ごとに、女陰から”抹消”された命を産み直して。
 
 溢れ出る乳は崩壊した世界群を癒して。
 撃ち出される精は復元された世界に動きを与えて。

 それは、あった。



 そして両性具有者は、その巨大な身を顕わしたままに、もう一つの体を、二重写しの如く圧縮し始める。
 小さく、小さく、どこまでも小さく、迷宮とパルボの虚無をその胎に宿したままに、縮んでいく。
 縮み、縮みきって、人と同じ大きさにまで縮むと……

 そのすべらかな腹部に虚無を全て納め、セルージャの前に立ち顕れて、(そのお方)は涼やかに微笑んだ。



 己れの視点に帰ってきたセルージャは、何も考えられなかった。
 見た事実は頭の中に断片としてあるが、それが意味を結ばない。
 ただ、<見た>という実感だけが、セルージャのひどく深い部分に、永遠に刻まれたように思える。
 セルージャの背後で、魔神達の巨大な質量が、ゆっくりと動くのが分かった。
 平伏、しているのだ。

「ス…」

 うわずった声が、セルージャも初めて聞くルキナの声が、背後から響く。

「ラ…ネ……シュ……さま……なの……?」

 両性具有者は小さく微笑むと、ゆっくりと、その艶やかな唇を動かした。
 唇が動くたびに、迷宮が震動する。世界が震える。



Si   O   N     Va  i   A   La   N   Su



 震動は長い時間をかけて連なり響き、定命の者の耳にはそう届いた。

 その瞬間、守護者達の精神に、全ての情報が激流となって流れ込んできた。
 ルキナ達が信仰していた神は、シオン=ヴァイアランスが、ある世界に顕れる時の呼び名に過ぎないこと。
 全ての両性具有者を、シオン=ヴァイアランスは愛し、加護しようとしていること。
 パルボIQの生みだした虚無は、このシオン=ヴァイアランスという豊穣に、すでに呑み込まれてしまったということ。

 セルージャの胸を、激しすぎる痛みが貫いた。あまりに強烈な、恋慕の思い。回帰の欲求。今ヴァイアランスに触れれば、全てがヴァイアランスと一つになれるという誘惑に、気が触れそうになる。
 セルージャは両脚に渾身の力を込め、ありったけの執着を思い起こした。
 レイシャを、イェンを、フロウネルを、アヴィダヤを、ドリコーナを、ネクロポリスを、武道を、医道を、医道を教えた一人の人間を、脳裏に描く。

 すう、と痛みが引いた。
 セルージャの前で、うなずくように微笑みを浮かべると、ヴァイアランスの姿は薄れ始めた。

 頭上から轟音が迫り、崩落した迷宮の壁を、乳白色の怒濤が流れ落ちていく。
 ヴァイアランスの体液が滝となって迷宮に流れ込み、迷宮を洗っているのだ。
 虫食いのように迷宮を侵していた虚無が、消滅した。
 枯れ果てた次幻樹の根に体液が染み込み、枯れ枝に小さな緑が芽吹いた。
 砕け散ったネクロポリス、白い波の中から三人のネクロナースが体を起こした。
 虫一匹住めぬ筈の地獄の溶岩が、生命の海のように豊かな渦を描いた。

 ヴァイアランスは消えていく。
 離れるのではなく、広がり、染み行っていく。
 セルージャが、そして誰もが、ヴァイアランスで満たされていることを教えるかのように………染み行って………


 消えた。








 ゆっくりと。静かに大きく息を吸い、吐くほどの時間が、再び音もなく流れた。

 己の目が見えることに、己の耳が聞こえることに、己の四肢が感覚を持っていることに、己がセルージャという一人であることに、その時ようやくセルージャは気づいた。
 そっと、手を上げてみた。産み落とされたばかりの赤児が今初めてそうするように、全身の細胞が鮮やかな驚きと歓喜をもってその動きを受け入れた。

「……ヴァイアランス……」



 誰かに肩を叩かれ、メランははたと我に返った。驚いて振り向くと、メリンがいつの間にか起きあがり、いくぶん弱々しい、だがおおむね普段通りのほよんとした笑顔で、メランに微笑みかけていた。

「ねえねえ、ばいあんずってなーに? くだもの?」
「ねーさ……」

 いっぺん殴り飛ばしてやるこの脳天気。心の一部がそう思ったが、残りの大部分はもっと正直だった。メランはそれ以上何も言わず姉を抱きしめると、肩を震わせて声もなく、泣いた。メリンもまたそれ以上何も言わず、戦塵でバサバサになった妹の長い髪を、柔らかいほっぺですりすりとこすってあげた。



 ルキナが涙を流して泣くのを見ることができたならこの首を差し出してもいいと、ザラ=ヒルシュは幾度思ったか知れない。それほどまで熱望した光景を彼女は今まさに目の当たりにしていたのだが、そんなことは意識の端にものぼらなかった。ザラ自身もまた、とめどなくあふれ流れ続ける涙を抑える術を知らなかったのだ。
 股間に稲妻が走り、自分が射精したのが分かった。目を落とすと、痛いほど勃起した己のペニスに、ルキナが優しく手をからめていた。ザラも手を伸ばし、ルキナの股間に屹立する二本のペニスの先端にそっと触れる。小さく吐息が聞こえ、ザラの手に温かくねばついたものがほとばしった。その温かさを感じながら、ザラとルキナはじっと結界球の外の光景を見つめていた。混沌の眷属として、ラネーシアの快楽の使徒として、自分たちがこれまで生きた全人生に匹敵する、いや凌駕さえするものを、たった今目にしたのだということを二人とも痛いほど理解していた。言葉は必要なかった。否、ただ一つだけ、口にされるべき言葉があるとすれば、それはある名前であった。
 ザラとルキナの唇が同時に動き、比類なき欲と愛に満ちたその名を紡いだ。

「「ヴァイアランス…………」」



〈ヴァイアランス〉
〔ヴァイアランス〕
“ヴァイアランス”
【ヴァイアランス】
∴ヴァイアランス∴
ЖヴァイアランスЖ

『シオン・・・ヴァイアランス』



 シオン=ヴァイアランス。
 かの神は与えたまい、奪いたまい、満たしたまう。
 乳液の海のどこかで、こぷっ、と泡が生まれて、弾ける音がした。
 嬰児の、おくびのようだった。



〈終章へ続く〉