セルージャの章・5
 (玄魔)


 迷宮第二階層。“インフィニア次幻樹”という名では、もう呼べない。

「………っひっ………っく……えくっ…………」

 乾きはてた灰色の幹の麓に、哀れなほど小さな二つの人影。動かない姉の体を抱き、華奢な肩を震わせて嗚咽をこらえる少女の名はメラン。

 崩れゆく灰色の枝々の下に、滑稽なほど巨大な一つの顔面。死せる大樹へ最期の一撃を加えんと、視界を埋め尽くして迫る神の名はパルボ。

《遂行度85%突破。プロセシング最終チャートヘ移管、絶対除籍スタンバイ》

 類人猿の顔が……全表面から突き出した大小数知れぬ金属塊によって、最初から不気味なカリカチュアに過ぎなかったそれはもはや目鼻の判別も困難になっていたが……ばくりと左右に割れ、黒光りする細長く節くれ立ったものが無数に、おぞおぞとうごめきながら這い出してきた。覚悟を決めたメランが、姉の小さな頭を無意識にぎゅっと抱きしめた、その時。

 ……ぽぅ…………

 背後に小さな暖かみを感じて、少女は振り返った。

 大樹の幹の麓、根と根に挟まれた窪みに、落ち葉と木屑が吹き積もってできた小山がある。
 その山をなす朽ち葉の中の一枚に今、爪の先ほどの小さな火が点いていた。

 いぶかしむより前に、その小さな火は乾いた朽ち葉へ恐ろしい速さで燃え広がり燃え上がり、さらにまた燃え上がってあっという間に、次幻樹の麓に轟々と渦巻く炎の柱となって、その勢いが頂点に達したところで突然雷鳴のような轟音と共に、真一文字に走った白い閃光が火柱を二つに切り払った。
 ドオッと吹き荒れる熱風の彼方、ゆらいで浮かぶ人影がゆっくりと歩み出てきた。灼けつく風にあおられて転んだメランが必死に顔を上げ、そして目を見開いた。

 赤銅色に輝く肌。赤光を噴き上げる双つの瞳。全身を染める鮮血と、真紅に濡れた看護衣。四囲に渦を巻く本物の炎さえも圧して荒れ狂う火焔のオーラ。
 右手に輝く大剣を携え。額にいただく三本の角は、天を衝いて伸び上がる。

「……セ……!!!」

 呼びかけた声は途中で上ずって消えた。感極まったからだけではない、怖かったからだ。
 だが、大猿の面の持ち主は恐怖などとは無縁である。

《目標変更。除籍開始》うごめき続けていた節足の先端に毒液のような光が滲み、猛然とその一本がセルージャめがけ襲いかかった。

 肉の裂ける音がした。だが当然それに続くべき苦鳴は無く、代わりにメランが聞いたのは、低く凄みのあるこんな言葉だった。

「……効かねえよ」

 腕ほどもある太さのその触手、カニの爪に似たその先端は狙い過たずセルージャの肩口に深々と突き立っていた。褐色の肉体に、新たな血の河が一本増えた。

《疑義。当該目標ノダメージハ予想値ニ一致。遂行度97%突破ト判定。然ルニ目標ノ敵性レベルニ変化無シ。
 否、敵性レベルC-カラBヘ移行。当該目標ノダメージカラ推算シテ現在ノ敵性レベルハ不可能。不可解。不可解。不可解……》

「不可解だろうさ」不思議なほど静かな瞳で、肩の触手にそっと手を添える。「解る訳がねェ。……生と死の意味を知らず」指が曲がり、握った手の甲にぐうっと血管が浮き上がる。

「己の血の味も知らず」みしり、と触手が音を立てて歪んだ。

「オレが今背負っているものが見えもしない木偶に!」

 破片と粘液と破砕音が飛び散り、固い殻に覆われた触手は粉々に砕けた。肩に残った先端部を無造作に抜いて投げ捨てると、びゅっと噴水のように血が噴き出した。だがそれでも、地を踏む脚はいささかも揺るがない。

「オレを今、立ち上がらせるこの力が何なのか、解るはずがない。オレの胸の中でギラギラ光って、死ぬまで、死んでも、絶対にブッ斃れるなと叫び続けてる、こいつが一体何なのか、永久に、絶対に、お前には解らない。
 ……わ・か・る・ものかあぁぁぁっ!!!!」」

 光が、嵐を巻いた。
 眼も眩む閃光の渦の中でメランは、まるで砂山が風に吹かれるように、セルージャを襲った触手がその先端から塵になって消えていくのを見た。それがセルージャの持つ剣の猛撃によって引き起こされているのだと理解した時には、その触手は根本まで灰になり剣……灼叫炎皇剣……の切っ先が「絶対除籍デバイス」の叢にこじり入れられていた。

「…奸ッ!!」

 白光が天へ跳ね上がり、縦に大きな裂け目をさらして触手叢は激しくのたうち回った。上空、優雅に宙返りしてふわりと着地したセルージャの背中に、はばたく黒白の翼を一対、確かに見たとメランは思った。

「……セ……、セルー……ジャ?」恐る恐る、呼びかけてみる。

 魔導看護婦は無言のまま、首を僅かに傾けて振り返った。真紅を通り越し、白く青く炯々と燃える炎がその瞳にあった。
 その唇がふいに微笑み、


「……悪ィけど、後、頼むぜ」


 その言葉の真意を問いただす間もなく、褐色の看護婦……いやさ赤銅色の鬼神は爆風を巻き起こし、破壊神の懐へと消えた。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

《不可解。不可解。不可解。不可解。消去。消去。消去消去消去消去消去消去消去消去消去……》



〈魔神の章・1に続く〉




語注

・絶対除籍…パルボによる一連の破壊シークエンスの最終プロセス。対象の実体を粉砕すると同時にアカシャ体に干渉し、そのものが存在したという事実自体を抹消する。