セルージャの章・2
 (玄魔)


 拳を覆っていた獣骨の篭手が澄んだ音と共に砕け、地面に落ちる前に乾いた塵になって消えた。

「……チェッ……流石に手強いでやんの……」

 褐色の肌を持つ魔導看護婦は右手を一振りして篭手の残骸を払い落とし、顎を流れる冷たい汗を返す手で無意識に拭った。


 迷宮第二階層、インフィニア次幻樹。山かと見紛う巨樹がそびえ立ち、枝々が天を、根脈が地を成すその空間に、凶々しくも圧倒的な威容を浮かべるそのものは何よりもまず、異質だった。
 ただ見ているだけで、吐き気を催すような金属質の違和感がじっとりと口の中に滲んでくる。鉛のヤスリ屑か何かを口一杯に詰め込まれたら、こんな気分になるだろうか。
 「それ」は、この世界にいるようにはできていないのだ。判断以前の事実として、セルージャはそのことを納得した。あらゆる事物を、砕き壊し除き絶やし潰し滅ぼし消し去るために生まれた絶滅の凶神。どんな世界であれ、「それ」が「居る」ことなどできはしない。「それ」が消えるか、世界が無くなるか、どちらかだ。

 その神の名は〈パルボIQ〉。

 蜘蛛の巣のように第二階層全体を放射状に貫く、恐ろしく巨大な七本のパイプ。その中心に鎮座する神の〈胴体〉は、数え切れないほどの管や鋼板や球や棒やコードを盲滅法にくっつけ合わせてみたら、たまたま何かに似た形になってしまった、とでもいうような姿をしていた。いかなる意味も無い、にも関わらず不気味な意味深さをほのめかすその形状は、セルージャには、類人猿の頭が地球儀の上で白痴的な笑みを浮かべているように見えた。

「……エテ公が」


「セルージャぁっ!」
「るーじゃー」

 背後にそびえる幹の陰から、獣耳の生えた小さな頭と尖ったしっぽが、ぴょこんぴょこんと二つずつ跳びだして駆けてきた。振り返るセルージャの瞳に、戦場には不似合いな揃いの体操服とブルマが映る。初めて見る者は大抵間違えるが、目元のきりっとした方が妹で、ぽよんぷのんとした頭の温かそうなのが姉だ。インフィニア次幻樹を守護する双子の淫魔、メリンとメランである。

「南の枝が予定より遅れてるの。こっちはどれくらい保ちそう?」
「ちそー?」
「分かるわけねェだろう。別にオレが抑えてるわけじゃねえんだ」

 えらく投げやりな答えだが、事実である。パルボ〈胴体〉と次幻樹との間にがっちりと立ちはだかるセルージャではあったが、スケールから言えば二頭のゾウの間にネコが頑張っているようなものだ。悔しいが、〈胴体〉がひとたび本気で動き始めたらセルージャ一人など、壁はおろか板子一枚の代わりにもなるまい。


 パルボIQの「本体」が第二階層に腰を据えていることをダンジョン・マスター直々の念話により伝えられ、取るものも取りあえず至聖後宮回廊から自分の階層をまたぎ越えてセルージャが第二階層に飛び込んだ時、この〈胴体〉はインフィニア次幻樹に猛烈な攻撃を加えているまさに最中だった。駆けつけざまに喰らわせた飛び蹴りは大して効かなかったが、パルボの注意がセルージャに向いた一瞬の隙に、メリンとメランは防御結界を完成させることができたのだ。
 無論パルボはすぐさま数千枚の不気味なレンズを閃かせて結界組成の解析にかかったが、淫界の世界樹とまで云われる妖樹の王、インフィニアの次幻樹が生体防衛能をフルに発揮して張り巡らせた結界を、いかに電脳兵神といえどそう簡単に突破できる訳はない。一方結界の向こう側は向こう側で、枝々に棲む数万の淫魔達を安全な場所に避難させる作業で大わらわである。しこうして、現在のごとき膠着状態に至るというわけであった。


「それよりお前等、ちゃんと結界の中にいろ。ぼやぼやしてるといつ例の無存在砲が来るか分からねェぞ」
「むさんぞーほーって?」
「さっさと行けっ!!」

 こいつといいレイシャといいルキナといい、タイプは違えどどうしてこう守護者ってのは天然系が多いんだろう。御主人の趣味か? 頭に浮かんだ馬鹿馬鹿しい疑問を一つ振って払い落とし、二人の守護者が大樹の幹にぴったり貼り付くまで下がったのを見届けると、セルージャは改めて大きく息を吸い、ふうっと吐いた。ゆっくりと、両拳を上げる。
 ゾウの前にネコが立ちふさがって、壁になろうとしても無理な話だ。だが牙に、爪に、弾丸になろうとしたならば、どうか?

「そろそろ見合いも飽きたろう。第二ラウンドといこうぜ、デカいの?」

《……演算終了》別に返事をしたのでもなかろうが、そんなタイミングで猿面は音声を発した。同時にその左眼がグワッと分解し、中から無数とも思える金属筒が弾けるように飛び出す。

《発射》

 腹立たしいほど無表情な声と共に、筒先からおびただしい数の光弾が一斉に放射される。目もくらむ輝きで樹下の薄闇を切り裂く傲慢な光の雨に対し、

「させるかよォッ!!」裂帛の気合と共にセルージャも跳ぶ。砲火の真正面に突っ込んだその体が、あわや光に打たれて無に還るかと見えたが。

「うゥるァァァァァァァ!!!」

 火焔と見まごう凄烈な蹴りが弧を灼き、襲い来る光弾の一つを芯に捉えたかと思うと、次の瞬間光弾は跡形もなく消し飛んでいた。続けざま数十、数百発の打撃が閃き、あっという間にセルージャを襲う軌道にあった光弾は一つ残らず消滅。そして一瞬後、三分の二ほどに数を減じた光弾群が次幻樹の結界に爆裂した。

「…な、何? 今セルージャ何やったの?」
「のー?」
「ちょっとした手品ってとこさ」爆光の照り返す中セルージャは最後の蹴り脚を下ろし、〈胴体〉を見据えて不敵に微笑んだ。
「どうでェ、これで手前の得物は怖かねえ」
                        、、、、、
“本質的に虚無であるものに抗うためには、存在は存在の過剰でなければならない”……異界の哲人の言葉をセルージャが知っていた筈もないが、彼女の武闘家としての天賦の才はたった二度の戦闘経験から、奇しくもその箴言とまったく同じ答をその拳で編み出していた。
 早い話が、極端な高密度に集斂させた霊体を打撃部位に乗せ、それでもって「虚無」そのものをぶっ叩くのだ。まことに彼女らしい、明確で直線的な解決法と言えるだろう。

《次弾充填》だが別に感銘を受けた様子もなく、左眼の砲門は再び光を蓄え始める。

「驚かし甲斐の無え奴だぜ」不敵な笑みは苦笑に変わり、さらにすぐ凄絶な鬼神の笑みへと変じた。《発射》再び打ち出される光弾の雨がセルージャを「通過」し、今度は半数以上が打ち落とされた。

「…おまけに、懲りることも知らねェと見える!!」さらに第三射を放つべく砲筒がエネルギーを集中し始めた、その隙をセルージャは逃さなかった。気合一閃、一飛びで左目のすぐ目尻に足をかけ、

「喰らいやがれぇぇぇっ!!!」

 炎の霊拳を砲門群の根本深くに叩き込む。二発、三発と立て続けに撃ち込めば、鈍い銀色の筒が一本、また一本と火花を噴く。

「やりィッ!」勝てる。セルージャが確信した、その瞬間。

《第6兵装肢、遂行度99.7%突破。任務達成ト判定、一時帰還モードニ移行》

 金属質の音声と共に、〈胴体〉のあちこちから伸びる七本のパイプの内の一つが、重い唸りを上げて縮みはじめた。
 こめかみに針を刺されたような冷たい予感に襲われ、セルージャの拳が止まった。琥珀色の瞳は蛇腹になったパイプの先に吸い付けられていた。“兵装肢”“任務達成”等の言葉が頭の中を迷走し、ようやく一つにまとまって意味を掴めたのは次幻樹の根の一角を吹き飛ばしてパイプの先端……猿に似た顔面を備えた巨大な〈右手〉が浮上してきたのを見た時だった。
 〈手〉は戦塵を浴びて薄汚れ、〈親指〉と〈中指〉が少々ひしゃげていたものの、大きなダメージはないようだった。指の関節の隙間に、誰のものか分からない魔導看護婦の制服が切れ切れになって挟まっているのが目に入った時、こめかみの針は爆発した。


 オレのせいだ。
 レイシャが心配だからと後宮回廊へ行き、〈本体〉と戦えるからと次幻樹へ飛び、本来の持ち場であるネクロポリスの守護を疎かにした。副官達がいれば何とかなるだろうと、高をくくっていた。
 いや、違う。〈右手〉と戦い〈胴〉と戦い、高をくくれるような相手かどうかオレはよく判っていたはずだ。あいつらだけで何とかできるものかどうか、判っていた筈だ。

 オレは目先の戦いに我を忘れ、己の責務を怠ったのだ。

(守護者失格だ………)違う。守護者の資格なんかどうでもいい。
 オレがいない間、ネクロポリスの奴等はどんな気持ちで戦っていたのだろう。フロウは、アヴィは、ドリーは、オレが帰るのを待ちながら、どんな思いで倒れていったのだろう。


 自責と悔恨は、どんな突き蹴りよりも痛かった。その痛みに気を囚われていたのはほんの一呼吸の間だったが、〈胴体〉にとってはその一呼吸で充分だった。

《左無存在砲門群第3、17、19、24砲筒交換終了。攻撃再開》

 煙を上げていた何本かの金属筒がするっと内側に引き込まれ、新しいぴかぴかの砲筒が何事もなかったように生えてきた。

「!しまっ…」

 た、と思った時にはもう遅かった。光弾の一つが脳天を直撃し、目玉をもぎ取られたかのように視界が暴力的に暗転した。
 鍛え抜かれた五体は主の指令がなくとも瞬時に空中で防御態勢を取る。しかし、視力が回復した時には目の前に、猿の〈口〉からぬらりと伸びた長大な手……〈舌〉だろうか?……が間近に迫っていた。……打ち落としてやる。ふらつく頭で無謀にも意を固めた。

「!!」その時、白く輝く光炎の刃が一閃、赤黒く輝く〈舌〉を一打ちに斬り落とした。誰か?疑問が脳裏に走るより早く、白と黒の奔流が視界を薙ぎ払い、

「だから言ったろう、お主の気は直順に過ぎるのだ」

 落ちついた声と共にセルージャの身体はとん、と後方に軽く突き飛ばされた。
 淫樹の根に受けとめられ、まるで乙女のようにぺったりと内股に座り込んだセルージャの傍らに。風を巻く雄大な陰陽の翼が、奇跡のように舞い降りた。

「…イェン!!?」

 迷宮最下層・地獄を統べる最強の守護者、黒髪黒瞳のチャイニーズ・デーモンは手にした神剣を一振り、払ってにこと微笑んだ。ひゅうん、と白光が鮮やかな弧を描き、その切っ先を封じていた一枚の札が今は無くなっていることに、セルージャは気付いた。

「悔も恨も今は捨てろ。心を割いて勝てる相手ではないぞ」

 それだけ言って背を向ける。慌てて立ち上がったセルージャの鼻先に、乾いた茶色のものがひらりと一枚、落ちてきた。何かと見れば、一片の枯れ葉。

 次幻樹の葉が枯れていた。

 三度に渡る無存在砲の斉射は、さしも次幻樹の結界にさえ微細な穴を穿っていた。見上げれば、千万葉生い繁る幻夢の枝々の中に今、ぽつんと小さな茶色の汚点。その周囲を泣き出しそうな顔のメランが……ついでにメリンも……駆け回り、なんとかして汚点の拡がりを食い止めようとしているのが見える。

「野郎……」

 怒りも新たに踏み出した一歩は、しかしその一歩で止まった。目の前の背中から吹き付ける、凄まじい闘気に圧されて、それ以上前に出られなかったからだ。闘気の主はゆっくりと振り返り、何気ない調子で告げた。

「……少し、暴れる。離れていろ」

 静謐な瞳の奥底に艶然と燃える、恐るべき「殺」の一字を感じ取り。セルージャは言葉もなく頷いて歩を引いた。横へやや間合いを取って拳の位置を定めながら、しかしふと押さえきれず首を曲げて問いかけてみる。

「そういやあんた、地獄はどうしたんだ」
「留守番を置いてきた」
「留守番?」誰を、と訊く前に。

《糾弾腕交換終了。機動破片及びメンバーズ展開》

 猿の〈口〉が一旦閉じ、再び巨大な唇が上がれば、中から現れたのは最初と何一つ変わらぬ赤黒い〈舌〉の姿だった。それと同時に、〈口〉の端から無数の平たい金属片……機動破片が涎のように、やがて滝のように溢れ出てくる。先程、砲筒を何本か潰した程度で「勝てる」などと考えていたのがとんでもない思い違いであったと、セルージャは覚った。

《GO》

 徐々に数を増す枯れ葉の中。迷宮開闢以来最大最悪の戦いのゴングにしてはあまりにもそっけなく、その声は響き渡った。


〈イェンの章・4へ続く〉



語注

・「本質的に虚無であるものに抗うためには、存在は存在の過剰でなければならない」…渋澤龍彦『サド解題』より。

・遂行度…「遂行」とは即ち破壊活動のこと。パルボにとり、破壊活動でない活動などあり得ないので、こういう言い方になるわけである。第6兵装肢の遂行度が99.7%を突破したとは、ネクロポリスを守る副官以下の戦力が全滅したということである。

・糾弾腕…パルボ〈胴体〉の武装の一つ。闇・法属性の万能破壊マニピュレータ。位置的には「舌」に相当する。