〈セルージャの章・1〉
 (玄魔)


 その日も、墓石都市は常と変わらず静かだった。
 見渡す限り死と無機の支配する静寂の都。時折、どこかの墓標の下から不死なる者達が立ち上がる音が密やかに響いて、消える。
 幾千の知、幾万の秘を永遠に蓄えるために地の底深くうずめられた生ける死者達も、時には新鮮な空気にあたって体を動かしたいなぞと思うものらしい。そんな彼らが墓の下よりも上に多過ぎると思ったら、出かけていって適当な奴を地の底へ叩き返す。それが、守護者セルージャ=ガレリア=ストラストヴァロスの役目の一つである。
 墓石都市は、常と変わらず静かだった。
 その時までは。


 そいつが都市の天蓋を突き破って現れた時、セルージャは日課であるリッチ相手のスパーを終えて一息ついている所だった。
 突然、第三階層内の墓石という墓石が残らずびりびりと震え、くつろいでいた四阿の壁石が何枚か剥がれて落ちた。

「……!?」

 ただならぬ異変を感じたセルージャが、四阿の外へ飛び出して目にしたものは、墓石都市の天蓋を貫いて上空より降り来たる、一本の巨大な触手。その先端は膨らんだ、猿の顔面を思わせる形状の瘤になっており、その瘤からはさらに五つの小さな瘤が伸び出て、それぞれがやはり猿の顔を思わせた。触手も瘤もすべて、冷たいほど清潔に輝く銀色で統一されている。全体としてそれらは、グロテスクなほど人間の手に似ていた。
 手だとするなら親指にあたる猿面がおもむろに口を開き、不快な金属質の声が空を圧して響き渡った。


《宣告ス。我ガ名ハパルボIQ。破壊スル者、削除スル者、抹消スル者ナリ》


 一瞬の後、都市の上空にあったその〈手〉は都市の大部分を占める墓標群の中に目標を定め、何やらん深海生物を思わせる素早さで急降下していった。後にはきらきらと燐光のような尾を残し、ほどなく上がった爆音は、セルージャに守護者としての役目を思い出させた。

「!……あンの野郎、誰だか知らねえがオレのネクロポリスで何勝手してやがる!」

 ぐっと満身に力を込めたと思うと、たくましい眉を憤怒に吊り上げた褐色の肌の魔導看護婦は弾丸のような勢いで都市中心部へ突っ込んでいく。同時にドガガガガガガガガガガガガと物凄い破砕音が響くのは、足下の敷石を一歩毎に踏み砕いて爆進しているためだ。灰色の墓標の群は目眩くようなスピードで視界の中心から外方へと放射状に流れ去り、風圧で看護帽が吹き飛びそうになるのを片手で押さえつつ、3魔界里を一息に走破したセルージャが石塔のてっぺんで制動をかけて踏み止まると、見下ろす目と鼻の先にその〈手〉はあった。この間、わずかに十数秒。

 しかしその十数秒で、墓石都市は取り返しのつかない打撃を被っていた。舞うように整然と五指をうごめかせて滞空する〈手〉の周囲には、

 何も無かった。

 残骸さえそこには無かった。ただのっぺりとした銀黒色の平面が、まるで墓石都市という一枚の絵をそこだけ切り抜いたかのように、きれいな円形に拡がっている。それだけだった。その場所に眠っていたはずの死者達がどうなったのかは、想像に任せるしかない。
(虚無……!?)
 一瞬、戦慄を覚えたセルージャだったが。すぐに、それは激怒と戦の興奮に取って代わられた。銀黒色の虚無原の中心に〈手〉と相対して見慣れたシルエットが一つ、激しい闘気を放っているのが目に入ったからだ。ばねの束のような脚の筋肉がしなって石塔の頂を踏み切れば、次の瞬間にはもうセルージャは虚無の原のただ中に着地していた。

「アヴィ!! 無事かッ!?」

 着地と同時に叫ぶ。間近で見る〈手〉は予想外に巨大で、〈指〉の先の猿面一つがセルージャの胴体ほどもあった。
 その〈指〉の一本……〈人差指〉を相手に格闘しているのはネクロポリスの副官の一人、吸血鬼アヴィダヤだ。自慢の右腕もこの馬鹿みたいに巨大な〈手〉と比較すると滑稽なくらい貧弱に見える。セルージャ登場に嬉しそうな顔はしたものの、振り返る余裕はないようだった。

「ボス!! 冗談じゃないぜ、こいつが無事に見えますかってんだ!! このサル面、殴っても殴っても堪えない上に、妙な飛び道具を出しやがって……ウッ!」

 言っているそばから〈人差指〉の先端の猿の両眼が閃き、肩口をかすめた光弾にがくりとアヴィダヤが膝を突いた。肉体にはかすり傷一つ無かったがセルージャの眼には、光弾が触れた瞬間アヴィダヤの霊体がごっそり削り取られるのがはっきりと見えた。墓標原を削り取ったのは、あれか。

 体勢の崩れたアヴィダヤに、残り四本の〈指〉が容赦なく襲いかかる。だが、疾風のように踏み込んだセルージャの手甲が三本までを叩き返し、残る一本はどこからともなく飛来した布帯のようなものに絡め取られて動きを封じられた。〈手〉の背後、枯木の陰に立つ包帯ずくめの女はもう一人の副官、マミーのドリコーナ。

「御無事ですか、セルージャ様」布帯の端を掴んだまま、慇懃に会釈する。

「おう、ドリー。こいつが何か判るか?」平然と立ち上がったセルージャだが、三本の〈指〉の攻撃を凌いだ両腕の甲は痺れて感覚が無くなっていた。ただの一攻めで…………先刻感じた戦慄が背骨に冷たく戻ってくる。

「……究極絶滅電脳兵神〈パルボIQ〉。私が生者であった時代にさえ、既に伝説となっていた虚無兵器です。ボルバキア第三王朝を一夜で滅ぼし、東の淫河を三日で干上がらせたという………本当に存在していたとは……」

 答えるドリコーナの声にも、拭いきれない恐怖の響きをセルージャは感じ取った。痺れる腕をさすり、〈手〉を睨み付ける。〈手〉はあくまでも無感情に、五本の〈指〉をうねらせて攻撃の機会をうかがっていた。

「……ヘッ。絶滅兵神だって? 上等じゃねえか」

 セルージャの瞳に炎が燃え上がった。拳を握り、体を開き、腰を落とす。全身の筋肉がミリミリと音を立てて盛り上がった。戦いの予感に股間も痛いほど張りつめる。

「このガレリアのセルージャが預かる魔人Rebisの大迷宮は第三階層ネクロポリス、消せるもんなら消してみやがれ!! てめェら、行くぞッ!!」

「「応!!!」」

 たちまち三筋の閃光が走り、セルージャが正面、ドリコーナが右、アヴィダヤが左から疾風となって〈手〉に襲いかかる。と思いきや、最後の一間でセルージャとアヴィダヤが真横へ踏み切り、魔法のように互いの位置を変えた。正面に集中した〈手〉の防備を巨大な右拳が抑え込み、手薄になった左の〈小指〉へセルージャの猛拳が集中する。
 ガギィン!! 濁った金属質の撃音が響き、ドリコーナの牽制と共に攻め手の二人は飛び退いた。〈小指〉の外殻には、わずかな凹みがついただけだ。

「おーいて……何て堅さだこいつァ」飛び退きつつ拳をさするセルージャ。

「だから言ったじゃないスか」

「こんな奴、まともに殴っちゃいられねえな」立て続けに飛来する光弾を横ざまにかわしつつ、(やってみるか……)セルージャは腰に矯めた拳を確かめるように何度か握り直した。「お前等今度は二人で牽制しろ。ちょっと試してみたい手がある」

「アレをやる気ですかい?」主人の意図を目敏く感じ取り、逆方向へ回り込みながらアヴィダヤが眉根を寄せる。空を舞い次々に斬包帯を繰り出しているドリコーナは無言だが、まあ賛成しているわけではなさそうだ。

「まあ見てろって」言うなりセルージャは進行方向を直角に曲げてまっすぐ〈手〉へ突進し、〈親指〉の甲めがけ思い切り引いた正拳を叩き込んだ。
 打撃音と共に火花が散り、装甲板が見事にへしゃげた。
 ただし〈薬指〉の。

「ありゃ」

「『ありゃ』じゃねえですよボス!やっぱりまた全然見当違いのとこ殴って!こないだみたいにとんでもない所から後ろ頭ドヤされンのは御免ですよあたいは!!」
「ガタガタ言うな!どうせまともに殴っても効かねえんだから一か八かだ!」
「一も八もボスのは単に自分がコントロールできないだけでしょうが!」
「そんなモン気合で何とかならあ!鉄砲も数撃ちゃ当たるってェだろう!」
「下手な鉄砲だということは自覚しておられるのですね」
「やかましい!!!! いいから手前ェ等きりきり動いてろいっ!!」

 喋る間にも三つの旋風は激しく舞い、かわし、互いの位置を目まぐるしく換えてはジャブを繰り出して牽制を加える。動揺も眩惑も知らぬ無機質な〈手〉の頭脳さえ流石にその全てを追いきれず、結果生まれるわずかな隙へすかさずセルージャが拳を突き込む。しかしまたセルージャの方も、習いたての無極拳をうまく集中させることができず決定打に至らない。巨大な〈手〉を中心に吹き荒れる竜巻のような、それは長い戦いだった。

 そうして何十発目かの拳が、ようやっと相手の芯に届いた感触があった。

《警告。第4駆動部に準Bレベルノ障害。損傷軽微ナルモ修復ヲ要ス。
 警告。下象限戦区Eニテ第5兵装肢ニA+レベルノ障害。本肢ノ受ケタル障害形態ニ0.05%有意デ類似セリ。結論。本敵ハ現戦力デ伏滅可能ト判断サルモ、ナオ警戒ヲ要ス。再整備ノ必要性……
 宣告ス。我ハパルボIQ。スベテハ滅スベキナリ……》

 再び金属質の耳障りな人工音声が響き、〈小指〉の先から真っ黒なガスのようなものが噴射された。視界を塞ぎ、肌へ触れると激痛の走るそのガスをどうにか振り散らした時には、〈手〉は影も形も無く消え去っていた。
 後に残されたのは廃虚と、虚無と、消耗し切って立つこともままならない三人の戦士。

「セルージャ様ー! アヴィダヤさーん! ドリコーナさーん! お怪我はありませんかーー!?」

 瓦礫の向こうからぱたぱたと駆けてくる小さな人影は三人いる副官の最後の一人、バタリオンのフロウネルだ。注射器と救急箱を小脇に抱え、息を切らせて走ってきた彼女へ、壁石にもたれかかったままのアヴィダヤが早速毒づいた。

「バッカ野郎、このザマ見て怪我があるかないかくらい分からねェかい。大体アンタ、この大変な時にどこほっつき歩いてたんだよ」

「あー、その言い方はひどいですよう」小さな胸に手を当てて呼吸を静め、フロウが反論する。

「アヴィダヤさん達はここでずっと戦ってたから知らないでしょうけど、あの大きな手が降りてきた後、きらきら光る欠片みたいなのがネクロポリス中にいっぱい降ってきたんです。それがみんなびゅんびゅん飛び回ってあたりを壊すものだから、それを追い払うのが大変だったんですよ。リッチさん達も起こして手伝ってもらわなきゃとても追いつきませんでした」

 見れば確かに、フロウネル自慢のガトリング注射器はほとんど空になっている。魔導看護婦の制服はあちこち破れ、首や手足にも何度か千切れて付け直した跡があった。相当の激戦だったのだろう。

「御苦労だったな、フロウ」労いの言葉をかけると、フロウネルはちょっと照れくさそうに微笑んだ。

「フロウ殿の言うのは恐らく『機動破片』のことでしょう。パルボ本体より剥離して生み出され、木の葉一枚ほどの大きさで下級淫魔数体を滅消する力があるとか」ドリコーナが補足する。

「そんな小技まで持ってやがんのか…………フロウ、リッチ共を起こしたのは正解だ。戦える奴だけ抜き出して、残りはカタコームへ退避させとけ。
 奴は一旦退いただけで、じきにまた殴り込んで来る。アヴィ、リッチ共の指揮を執って陣を敷け。天井の穴と機動破片って奴に注意しろ。ドリー、パルボ何とかの情報をあるだけかき集めろ。神殿のルキナや次幻樹のメラン達にも連絡を……」

 そこまで口にして、セルージャは自分の言ったことの意味にハタと気がついた。神殿のルキナや次幻樹のメラン。迷宮の他の階層。
 もし、今撃退したばかりの手に似た形をしたあいつが本当に〈手〉でしかないのだとしたら。あの〈手〉に〈本体〉が、別の〈手〉や〈脚〉がいくつもあるのだとしたら。それらがこの第三階層と同時に、迷宮の他の階層を襲っていたのだとしたら。
 そうだ当たり前だ、なぜこの第三階層だけが狙われたなどと考えるんだ?

 もし、そうだとしたら。最も危険なのは。

「レイシャ!!」

 思考が形になるより早くセルージャは叫び、叫ぶと同時にその脚は走り出していた。
 背後では三人の副官が鉄砲玉のような自分達の主人を呆れて見送りつつ、それぞれの任務を遂行すべく動き出したのが感じ取れる。それでいい、あの娘等は優秀だ。自分がいなくてもしばらくは保つだろう。ことが片づいたら、三人ともたっぷり可愛がってやらないとな。
 そんな冷静な思考はしかし脳味噌のどこか隅の方で細々と行われていたことで、この時セルージャの頭の大半は一人の、冷たく優しく儚げな魔メイドの姿で占められていた。七守護者中でも屈指の魔法格闘力を誇るこの自分にしてあれほど苦戦したあの〈手〉の猛攻を、彼女の細い腕が一撃でも受けようものなら……

「レイシャ!! 生きてろよッ!!!」

 胸に炎を燃やし、瞳に稲妻を宿し、褐色の肌に白骨の鎧をまとった両性具有の戦士は、火花の残光を残して階層間の闇を駆け抜けていった。



〈レイシャの章・2へ続く〉



語注
・無極拳…「守護者小説玄魔版・セルージャ×イェンの章」においてセルージャがイェンより手ほどきを受けた、無極伐皇紅錬拳のこと。セルージャはここでは〈右手〉の装甲を素通りして芯部に打撃を与えるために使っている。
・下象限戦区…パルボIQは独自に戦場をエリア分けしてマップを構成している。本体のいる場所(第二階層)より下側のエリアが下象限戦区で、A、B、C、D、Eの順にネクロポリス、ラネーシア神殿、後宮回廊、旧市街、地獄。
・カタコーム…地下墓地。ネクロポリスにおける地下シェルターのようなもの。