魔神の章・7
 (玄魔)



 鐘が、鳴った。



 それを合図に、あるいはパルボに牽制を加え、あるいは破壊されたエリアの修復に努めていた、数多の魔神達の動きがぴたりと止まった。
 代わりに、ぴんと張りつめた一本の糸のような、細く鋭い結界が瞬く間に巡らされ、銀色の凶神の動きを封じる。

「……幕間、といった所ですかしら」一目見て、ザラが言った。張られた結界が、強力ではあっても一時的なものに過ぎないことを即座に見抜いたのだ。

「どういうこと?」不安そうにメランが尋ねる。

「もう待つ必要が無くなったってことでしょ。何を待ってたのか知らないけど」ルキナがあっけらかんと答えた。

「……あれだと思うぜ」セルージャが目を上げ、しゃがれた声を喉から押し出した。



 藍色の髪がうねり舞う。
 白いローブの裾が、存在しない風を受けて翻る。

 左手に鐘を。
 右手に錫杖を携え。

 狂える科学を司る者。
 絶対無敵の大魔王。
 そして、混沌なる快楽の源〈かの者〉に最も近しい者。
 魔神の中の魔神ロード・オブ・ノーザン・マロウは、その身に秘めた神気の凄まじさに比すれば不自然なほど変哲のない、眼鏡を掛けた白衣の男という姿で、ここRebisの迷宮に姿を現した。

「………グレート・ノーザン!? よもや、貴方のような方までが……」

 バイザーの中の赤い星が激しく左右に振れ、着用者の精神の動揺を示した。この数刻というもの、迷宮始まって以来の大惨劇に対峙し続け、それでもなお眉一つ乱すことのなかったダンジョンマスターが、彼を見て初めて取り乱しているのだ。

『私とてこの愉しき迷宮の行く末は気に掛かる。来ていけないということがあるものかね』

「い、いや、それは……」

 一見質素なその白衣の陰に、今迷宮に降り来たる神々の誰よりも巨大な力が秘められていると、見て取れる者はこの場にダンジョンマスターただ一人。同じ結界球の中で傷ついた体を休める四人の魔族(昏睡中の一名除く)は礼を取るでもなく、結界の外にふわふわ浮いている新参者と、その新参者に向かって恭しげに頭を垂れている自分達の主人を訝しげに見上げていた。

『もっとも、正直ここは随分脆くなっているようだね。私が降りるのにこれだけ窮屈な思いをするのでは、〈あのお方〉を受け止めることができるかどうか……』

「〈あのお方〉……!?」

『そうだよ』グレート・ノーザンはニヤリと笑った。『私は露払いに過ぎない。君の所のあのかわいい猫のお嬢さんは、どうやら君が思っているより遥かに実力も覚悟もあるようだ……』


〈グレート・ノーザン〉


 恭しい声と共に下方から強大な神気が吹き上げ、結界球をわずかに押し上げた。だが、グレート・ノーザンは微動だにしない。それを見て初めて、四人は今目の前にいるこの者が自分達の想像を超えた存在であるかも知れないということに思い至ったようだった。


〈お待ちしておりました〉

『肉神殿。他の諸神方も、待たせてすまんな』

〈皆、先の鐘の音にて配置を終えております。あとは号令を待つばかりなれば〉

『良かろう』

 まるで、ささやかなホームパーティでも始めるのだという調子で。
 白衣の両腕がゆっくりと上がり。

『さあ諸君、始めよう。今こそ、魔神達の夜を』



 白衣が爆発した。
 一瞬、セルージャは白衣の男が爆死したのかと思った。それほどまでに凄まじい勢いで神気が膨張したのだ。だが実際は、グレート・ノーザンがこの迷宮に降臨するために圧縮に圧縮を重ねて折り畳んでいた自分のパワーを、解放したに過ぎなかった。
 そして、爆発したのはグレート・ノーザンだけではなかった。


 剣。
 刀。
 拳。
 砲。
 炎。
 氷。
 土。
 風。
 光。
 闇。
 音。
 色。
 物質。
 波動。
 空間。
 時間。
 言葉。
 概念。
 善。
 悪。
 生。
 死。
 存在。
 無。

 天地が開けてより以来人が人を、神が神を、魔が魔を、何かが何かを攻撃するのに使われたありとあらゆるものが吐き出され、撃ち出され、押し出され、渦を巻く滝壺のように、逆行する太陽のようにある一つの点に向かって収斂する。
 居並ぶ魔神達が一柱残らず、持てる力のすべてを解放し振り絞る。宇宙の創世、百万もの宇宙の創世に匹敵するエネルギーがその途を遮るあらゆるものを壊し、砕き、消し、滅ぼしながら目指す、ただ目指す、すべての力が意志が集うその一点こそはパルボ。
 迷宮が揺れる。嵐を注ぎ込まれたコップのように。何も見えはしない、何も聞こえはしない、ただその威力のほかに、この世界を満たすものなど何一つありはしない。あらゆるものを呑み込む華々しきラグナロク。宇宙に開いた、終末という名の光輝く穴。

 魔人Rebisが手ずから結んだ……ということは、この迷宮内で最強の強度を誇る……セルージャ達の結界球が、まるでシャボン玉か何かのように頼りなげに揺れた。

「…………」セルージャは感謝した。激戦の疲労で、己の五感が鈍磨しきっていることを。正気の神経にこの光景をぶつけられたら発狂していたかも知れない。胸に抱えた灼炎剣が、文字通り灼けるように熱かった。

「…………」メランは言葉も出なかった。緊張した時舌が口蓋に張り付くように、思考が頭の奥に張り付いて動いてくれなかった。魔象庁は今ここで起きていることを記録する数表に一体どれだけのゼロを連ねる必要があるだろうかと、埒もない疑問が脳裏をかすめた。

「………美しいですわ…」ザラは呟いた。この美、この力、この威の前では自分など一滴の水に等しい。踏みにじられたプライドは苦痛と、ある種の甘美を伴って胸を締めつけた。無意識に両手が組み合わさり、豊かな乳房を強く押さえつけた。

「…………」ルキナは平然としていた。少なくともそう見えはした。壮大なる光景を横目で眺めつつ寝そべる、その肩がしかし小刻みに震えていることに、気付いた者は誰もいなかった。ルキナ自身でさえ気付いてはいなかった。

「………にゃー」メリンは寝こけていた。これだけの霊圧の中で尚眠っていられるというのも器の大きさではある。


 ダンジョンマスターも結界球の外へ一歩踏み出し、両目を覆うバイザーを外して、高々と投げ捨てた。深紅の光の奔流が至近で炸裂し、四人の視界を奪う。だが、目を逸らす者はいなかった。最も耐久力のないメランでさえも、視神経が傷むのも構わず両眼を見開いておのが主と、輝く大いなる渦を見つめていた。
 例え己の両眼が潰れたとしても、この光景は見ておかなければならない。玄魔の言葉を思い返すまでもなく、誰もがそれを分かっていた。
 赤く染まった世界の中で、パルボ〈胴体〉から伸びる七本の長大なパイプが見る見る縮んでいくのが見えた。いや、よく見ればそれは縮んでいるのではなく、パイプそのものが末端から破壊されていっているのだ。その先端部分に降り注ぐエネルギーの雨をたどってゆけば、見慣れた神々、見知らぬ神々が彼方の階層から顔を覗かせ、全体としてパルボを囲む巨きな輪を成しているのが見て取れた。

「パルボIQΔは七つの命を持っている。それは即ち、七本の兵装肢すべてに予備回路を備えているという事だ」

 突然、ダンジョンマスターの声がセルージャの耳元で聞こえた。念話で皆に語りかけているのだろう。隣でメランの獣耳もぴこぴこ動いている。
 攻撃はパルボの拒絶障壁をあっという間に突き破り、本体に達した。守護者達が、たった一枚破るのにもあれだけ手こずった積層装甲が、まるで銀紙か何かのようにまとめてむしられていく。破れた端から再生してもいるが、崩壊のスピードの方が遥かに速い。パルボ〈胴体〉はじわじわと縮み、その内臓をさらけ出しつつあった。

「一つでも回路が残っている限り、奴は逃げ延びて復活する。それ故、完全に滅ぼそうと思えばこうして七方向から同時に攻撃を掛けるしかない。それを実行できるだけの神々をどうやって集めたものか思案していたが、巫女子は予想以上に上手くやってくれたようだ」

 外装甲の、ほとんど攻撃的なほどの清潔さとは対照的に、パルボの内奥部には膿んだような色のどろどろした器官がいっぱいに詰まっていた。厭な音と共にそれらが溢れ出し、鼻を刺す異臭がここまで漂ってくる。

「………うわ……」メランが、吐き気を押さえるように口元へ手をやった。

「醜い……所詮、無粋な兵器の中身などあんなものですわ」

「ボクの神殿にあんなものぶちまけないで欲しいなあ。後で掃除が大変だよ」

「あれが、パルボの正体だ。私も直に見るのは初めてだが…………『絶対』と『完全』を振りかざすその裏には、腐った汚泥が満ち満ちている。虚飾を極め、身勝手な正義と良心の名に溺れた、第二期魔道帝国の傲慢と怯懦の結晶があの姿だ」

 淡々と解説を続けるダンジョンマスターの声は、痛烈なその言葉の内容とは裏腹に、静かで穏やかだった。少なくともセルージャは、その声音に他の守護者達のような嫌悪も、蔑みも、感じ取ることはできなかった。
 もしかしたら……もしかしたら、この寡黙な魔導師は、自分の迷宮を破壊したこの相手を、憎んではいないのかも知れない。セルージャはふと、そんなことを思った。
 だから、彼女は何も言わず、ただ黙って主人の背中と、砕けゆくパルボを見続けた。

 汚泥の沼の奥から、銀赤色の鋭い光が迸った。内奥のさらに奥、パルボの真の心臓部が現れようとしている。

「セルージャ、見ているか?」突然、念話が個人回線に切り替わった。

「え? は、はい」うろたえたセルージャが思わず顔を上げる。

「あれがパルボの〈心臓〉だ。七つの予備回路すべてを封じた状態で、あれを破壊すればパルボIQは死滅する」

「……」

「さあ、行きなさい」

「へ!?」

 我ながら、間抜けの見本のような声だった。それはそうだろう、あまりに唐突だったのだ。

「行くって……オレがですか?」

「他に誰がいる。諸神方から何も聞かされていないのか?」

 言われてセルージャの脳裏に、ニンジャ・マスターの言葉が鮮烈に蘇る。


(セルージャ殿には、今より大事な御役目が待って御座る)


「あ……!」

 セルージャは周囲を見回した。
 ルキナもザラも消耗しきっている。メランとメリンは元より戦士ではない。そして……イェンはここにはいない。

「戦いはもうすぐ終わるだろう。それは魔神達のおかげだ。だが、決着は迷宮に住む者の手で付けなくてはならない。それができるのはお前の拳だけだ、セルージャ」

「…………御役目、か……」

 そうだ。これはセルージャの仕事だ。
 セルージャは結界の壁によりかかったまま、黙ってしばらく、己の握った拳を見つめていた。やがてその手をぱっと開き、やおら立ち上がると、

「メラン。お前のその服、ちょっと破いてよこせ。あと、メリンのも」

「ほえっ?」

 メランが面食らってセルージャを見上げた。が、しばらくして小さく頷き、自分の着ている白い……ここ数時間ですっかり灰色に汚れてしまったが……体操服の裾を細長く引き裂いてセルージャに渡した。続いて、眠っているメリンの体操服を同じように裂く。セルージャは受け取った布切れを、自分の左右の二の腕に丁寧に結んだ。

「ルキナ、ザラ、お前等もなんか貸してくれ」

 セルージャとRebisの会話の内容を薄々察していたのだろう。二人のケイオスヒーローは躊躇いなく身を覆う装身具の一部を外し、放ってよこした。慣れない手つきで、ルキナの肩当てと、ザラの腕輪を装着する。セルージャ自身の看護服に備えられていた肩当てと腕輪は、とうの昔に砕けてどこかへ行っていた。
 看護服のポケットを探り、小さなカフスを取り出して襟に留める。懐に突っ込まれた玉串……イグレック独尊から渡されたもの……を手に取り、少し迷った後ベルトに差した。

「センスのない格好ですこと」身もフタもない感想をザラが述べる。

「何とでも言え。……で、と」最後の仕上げとばかり、脇に立てかけておいた灼炎剣をぐっと掴み取る。気のせいか、今までにも増して力強い手応えが返ってきた。

「これでよし。じゃ、行ってくるぜ」

 力強く手を挙げ、セルージャは結界の外へ踏み出した。霊嵐の外縁であるにも関わらず、踏み出したその途端に猛烈な霊圧がセルージャを襲う。魔導看護婦一人などあっという間に揉み潰されてもおかしくない圧力だが、セルージャは平然とその中を歩いて進み、ダンジョンマスターの横に並んだ。

「行きます」

「うむ」

 ひどくそっけない、短いやりとりの後。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


 濃密なエーテルを蹴って閃光のように、いやさ嵐を貫く稲光のように、セルージャは竜巻の中へ突っ込んだ。
 駆ける。炎を吹き上げる灼炎剣を腰撓めに構え、噴き上がる炎を不死鳥の尾のように後へ引き、駆ける。一直線に、渦を巻き流れるエネルギーの激流さえ突っ切って一直線に、駆ける。駆ける駆ける駆ける先に目指すはただ一点、パルボIQの〈心臓〉!

 銀赤色の点だったそれが、近づくにつれ大きさを増して球になる。遠目に思っていたより随分大きい。直径がセルージャの身の丈くらいはあるだろうか? 視界の周囲がふっと暗くなる。崩壊した外装甲の内側の領域に入ったのだ。腐汁の臭いが鼻を突く。顔を顰める。だが、目は見開いたまま。そうだ、何があっても目を閉じはしない。
 中心まであと一呼吸。撓めた剣に力を込める。剣は炎で応えた。大丈夫、イェンが一緒だ。迷宮の皆が一緒だ。
 半呼吸。いっぱいに引き絞った弓のように、限界まで抑えつけた力のロックを外す。痛いほど張りつめる力が、叫びとなって迸る。


「パァァァァルボォォオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」


 ゼロ。解き放たれた力が前方へ。〈心臓〉へ。すべての終わりへと突き進む。
 真っ赤に燃える切っ先が銀赤色の結晶を割り裂き、刀身が紅の奔流のごとくなだれ込み、最後に鍔が突き当たってガチン、と音を立てた。




 魔神達の攻撃が止んだ。
 セルージャは動かなかった。
 パルボIQも動かなかった。
 誰一人として動く者はなかった。
 耳が痛くなるほどの静寂の中。
 メランが、やっと小さく呟いた。


「…………おわったんだ……」


 しかし。
 その言葉は、間違っていた。


〈ヴァイアランスの章へ続く〉


語注
・魔象庁…魔界の気象・霊象の調査、霊圧配置図の作成、魔導災害の予報などを業務とする官庁。人間界の気象庁よりは当たる。

・カフス…レイシャの章・2においてレイシャから渡されたカフス。