魔神の章・6
 (玄魔)




 地獄が、煮えた。

 大地は割れ、砕け、うねり、のたうち、己の奥底に泡立つ溶岩をたぎらせた。渦を巻き流れるその狭間に時折、果てのない次元の深海が覗く。
 永遠という言葉が意味を失う闇洋の奥彼方、その闇よりもさらに深い虚劫の空洞が三つ、ぼっかりと空いた。

 溶岩の中から炎を袈散らして、一本の塔がそそり立った。すぐに続いてもう一本、また一本……全部で八本の塔は、沸き立つ火焔の海を縁取り、ぬめぬめと真紅に輝いて天へと伸びる。
 違う、塔ではない。巨大な触手だ。兵神の持つ金属のそれとは違う、生命を持った触手だ。八陣を描くその中心に生まれた溶岩の渦がぐぼりと沈み、鮮紅色のドームが浮上する。その側面に開く三つの洞こそは虚無。二つは瞳、一つは顎、虚ろな闇は何を映し、何を呑むのか?

 全身が浮上した。かつて創造の時、元始の大海を撹拌したというその姿が地獄の炎に照らされる。八本の脚を持つ、紅色の偶像。





 あらゆる神々より古き次元海の魔。埴輪海王。





「はふわー…………」

 つい今しがたまで灰色に冷え切っていた地獄を、ものの一刻とかからず再び煮えたぎる業火の海と変えたその偉大なる海魔の姿を、ティー=トゥー=メイは呆気に取られた顔で見上げた。
 傍らの天涯無角は落ち着いて、無言で一礼する。


ЖごぼりЖ


 文字通り地獄の底から響くような声……声だろうか?……が、地盤の緩んだ迷宮最下層を重く震わせた。

「すごいアル……タコは嫌いだったアルが、考え直さないといけないアル……あれ?」

 メイが何かに気づき首を傾げた。

「おかしいアル。タコの脚は八本の筈アル。イーアルサン……師伯、西洋のタコは九本脚アルか?」

 そんなわけはない。が、幸いにして無角が答えるまでもなく、脚の方がうねり、悶え、身にまといつく溶岩をふるい落とし、その正体を露にしてくれた。岩の中より現れたのは蛇腹と巨大な五本指を持つ、金属の巨大な触手。それはメイの見慣れた……

「〈左脚〉!?」

 〈腿〉〈臑〉〈足裏〉すべての武装を全開にした超兵器はしかし、その場から一歩も動くことはなかった。なぜなら、

「そこな足。海王殿は地獄の再励起で大層御疲れでおじゃる。狼藉を働こうというのであれば麿が相手になろうほどに」

 目のくらむようなものすごい雷撃が数十、立て続けに飛来し、その穂先でもって〈脚〉を串刺しにしたからだ。たちまち黒焦げになって、スパークを発しながら溶岩の海へ沈んでゆく〈脚〉。ますます呆然としてそれを見下ろすメイに、どこか上方から間延びした声がかけられた。

「ほっ。ほっ。ほっ。怪我はおじゃらぬか、日没する国の姫君」

 驚いて見上げると、中空高く聳える八本の肉塔、その一つの頂きに人の姿が見えた。あちこち膨らんだ奇妙なローブと、やたらに丈の高い帽子には見覚えがある。たしか、極東の次元界に住む貴族の服装だ。


 夜の秘密を知りたいか? ならば、彼の地を訪れるがいい。

 淫の謎を解きたいか? ならば、彼の門を叩くがいい。

 そこは終わりなき宴の領国。鬼神も、聖者も、夢魔さえも、一度門を潜れば、その支配から逃れることは叶わない。
 途切れることのない性夜の王国。その支配者、性の神にして夜の神、雅なる領主。





 小聖性徳寝居国守・菅嬌極鳴神大公。





 海王に劣らず古き神、偉大な極東の貴族は手にした扇を優雅に一振りし、舞うような仕草をした。挨拶らしいと分かったメイが慌てて礼を返す。

「あ……危ない所を助けて頂いて、どうも恐惶謹言アル。私や姉上があんなに手こずったパルボをあっとゆー間に片づけられてしまって、今ちょっと立場がないアル」

「ほっ。ほっ。ほっ。安心しておじゃれ、退治てはおらず。時至るまでは枝々を退治ても詮無き事と含められておじゃるよ」

「時……至る?」

 メイの質問に無角と小菅公が無言で頷き、海王が再びあの深淵の声を発しようとしたその時。


 鐘が、鳴った。

〈諸神降臨の章・7へ続く〉


語注
・小聖性徳寝居国守・菅嬌極鳴神大公…「しょうせいしょうとくねいのくにつかみ・すげのきょうごくなるかみたいこう」と読む。「鳴神」の名で分かる通り雷神でもある。俗に小菅公、菅公などと呼び慣わすが、「小聖」「寝居国」「菅」の三語を取って聖三字〈S.N.K〉で表すこともある。