魔神の章・4
 (玄魔)




 銀灰色の次元海を漂う、巨大な結界球と化した第四・第五階層。そのコントロール・ルームである、後宮奥の院。
 豪奢な天鵞絨の深い椅子に座る美しき魔メイドは、執拗に追いすがる凶神・パルボIQの追撃の手を逃れようと、もう一刻近くも目まぐるしい回避機動を管制し続けていた。

「機動破片にこんな能力があるとは……盲点でした」

 ビューアの一枚に目をやり、レイシャは自戒ともうめきとも付かぬ声を漏らした。白魚のような十本の指は一瞬も休まることなくコンソールの上を躍り回り、しかめられた眉間から時折玉の汗が鼻梁をつたい流れる。
 パルボの虚無兵器の余波は迷宮の外界にまで及び、周囲の近しいプレーン達をも崩壊へと導いていた。本来ならほの青い燐光に包まれているはずの次元海も、今はプレーンの死骸が充満して灰色に濁っている。
 そして、その中にひときわ清冽な銀色の輝きを放つ、人の姿をした巨大なものが、結界球のすぐそばまで迫っていた。パルボ〈胴体〉にも匹敵する大きさのその人型の表面を仔細に見れば、全身がびっしりと銀の鱗のようなもので出来ていることが分かるだろう。それが、追手であった。

 絶滅兵神の名を甘く見すぎていた。機動破片の数百枚程度ならば、結界の防衛システムで十分に対処できる。発進して、ある程度距離を取ってしまえば、パルボといえども追っては来るまいと考えていたのだが。
 追尾してきた機動破片は数百どころではなかった。数万、いや数千万、あるいは億の単位にも昇る銀色の大軍団が、第四・第五階層のパージとほとんど時を同じくして〈尾〉の先端から放出された。そしてそれらの破片はただ追撃するのでなく、互いに接合肢を展開し、絡み合い、重なり合って一つの巨大なユニットへと合体進化したのだ。機動破片とはまさしく「破片」なのであった。

 それだけで数千枚の破片からなる銀色の目玉が破滅の光線を発し、また一本の柱が砕かれた。左舷の結界が危険深度まで損壊したのを確認し、それをカバーするための推力を下舷部から借りてくる処理を済ませると、コンソールを叩きつけてオートに固定しレイシャは立ち上がった。
 どうやりくりしても、結局相手の破壊力の方が遥かに勝っている。対して、こちらの機動力と防御力は落ちる一方。結界に取り付かれるのは時間の問題だ。ビューアを切り替え、回廊内部をモニターする。かつては静謐な肉欲の楽園だった後宮回廊は今やその面影もなく、火花と煙の充満するベルベットの海の中をミサトはじめメイド達が文字通りかけずり回っていた。

 まだ、死ぬわけにはいかない。御主人様に託された使命を果たすまで。桜という名の花が咲く、新たなる約束の地を見つけだすまで。そして、後にしてきた他の階層の住人達に、もう一度生きて会えるまで(そのことを考えた時、真っ先に浮かぶ一つの名があった。だがその名を今この時に口にしてしまうほど、彼女の心は脆くはなかった)。

 レイシャは魔メイドの制服にしつらえられたいくつもの隠しポケットの一つを探り、あるものを取り出した。


(どうにもならないと思えた時は、これを使ってある神の名を呼びなさい)

 主人の私室で、これを渡された時の言葉が蘇る。

 それは小さめのコンパクトか、さもなくば懐中時計のように見えた。ずしりと重い金属製で、上面には大きく「X」のマークの上に両性具有のレリーフが飾られている。赤や青の原色をふんだんに使ったカラーリングは幾分けばけばしく、あまり趣味がよいとは言えないとレイシャは判断を下した。

 教わった手順は極めて簡単だった。右手に持ったそれを、高々と頭上に掲げる。

「ええと……え、」そこでちょっと口ごもってしまった。情を殺すのが魔メイドの真髄とは言え、やはり気恥ずかしさというものはある。こほん、と一つ咳払いをし、あらためて一つ息を吸って、


「えろいざーーーーーーーーーーーーっ!!!」


 瞬間、レリーフから眼も眩むばかりの閃光が一条ほとばしり、院室の天井を貫いて後宮を飛び出し、結界をも貫通して、次元海を厚く覆う雲の彼方へ消えた。

 たちまち一天轟き唸り、視界が信じられないほどの広さに渡って真黒く切り取られた。雲の中から、途方もなく巨きな一つの手が出現し、銀の人型を鷲掴みにして粉々に砕いた。


「これは……!」レイシャは絶句した。レーダーがブラックアウトしたかと思ったが違う。あまりに巨大すぎて、画面内に捉えきれないのだ。モニタを埋めるのはただ、大質量の闇ばかり。


 暗黒の中から、鋼鉄と鋼鉄のぶつかり合う、熱く重い響きが宇宙を震わせた。はるか上方に、人の眼に似た二つの光がボウ……と灯る。


 外部照明をオンにすることを、ようやくレイシャは思いついた。サーチライトが虚空を駆け巡り、そこに照らし出されたものを見てもう一度レイシャは絶句した。


 次元の闇に照り映える、蒼と紅との鋼のボディ。

 胸に輝くXマーク。

 その拳は山をも掴み、その一歩は大湖を穿つ。異界の童歌にかく歌う……〈僕等の夢ほどデカい奴〉。





 銀河に聳える黒鉄の巨神、エロイザーX。





《《呼んだな、娘》》


 腹の底を突き上げるような重低音がスピーカを通さず、直接結界内の空間を震わせた。恐らく、回廊にいる全員に聞こえていることだろう。それでもメイドとしての節度と威儀を崩さず、モニタに向かって一礼したのは流石と言える。


「確かに、お呼びいたしました。私は魔人Rebis様の迷宮第四階層を預かる魔メイド、レイシャと申します。危ない所をお助けいただき、誠に有り難う存じます」


《《礼はまだ良い。第一、助け終えてはいない》》鉄神が唸りを上げて、その巨大な左手を開いた。そこには、数十枚の銀色の破片の他、何もなかった。

「!」レイシャは素早くコンソールを叩いた。結界球を十重二十重に取り囲み、小さな光点が広域レーダーを埋め尽くしている。
 握り潰された合体破片が即座に元の機動破片に分解し、より機動性の高い数百枚単位のユニットへと自身を再構成したのだ。その姿は今度はある種の航空機に似ていた。鉄神の出現に気を取られ、警戒を怠った己の迂闊さをレイシャは呪った。

 だが、広域レーダーはまた別のものも捉えていた。これもまた何かの大軍だが、遥か遠くの右舷方向から編隊を組んでこちらへ向かってくる。それも、恐ろしい速度で。

《《来たか》》鉄神の声とほとんど同時に、最初の一条のビームが航空機型合体破片の一機を爆発させた。


 嵐が来る。
 いや、違う。

 嵐が、征く。美やかなる鋼鉄の嵐が。

 数百、数千、いや数万の、少女の姿をした鋼鉄の翼が虚空を覆う。数十万のビームの嵐が、機動破片を焼き尽くしてゆく。その姿にはレイシャは見覚えがあった。回廊の賓客の中に、同じ姿をした少女がいる。
 そしてその中心にあって、一際輝く巨大な光の翼こそは。


『ジェイドの理を以て移ろい往かん万象の魂よ、無尽の戦騎となりて鬨の声を上げよ……
 すべての有、すべての無を怒りの茨にて打ち据える可し』


 百万の雷の龍が空を乱舞し、真昼のように周囲の空間を照らし出した。ビームを逃れた機動破片達が、龍の顎で粉々に裂き砕かれる。

 その閃光を跳ね返し鋭く輝く、鋼の天馬に打ちまたがるその姿。青紅碧紫四色の瑞光を従え、無人の天を駆ける者。





 四元のフォースを司る宇宙の軍神、T.Z.グラディウス。





 少女の姿の戦闘機達はあっと言う間に機動破片を一枚残らず消滅させると、流れるようになめらかな動きで後宮回廊の前後左右を囲む紡錘形のフォーメーションを取った。防水の頂点には、光の手綱を引き絞って軍神が立っている。


『ふむ、どうにか大事に至らんで良かった。この娘、いつまで経っても我らを呼ばぬ故、一時は手遅れになるかと思ったぞ』

《《そこはそれ、魔人殿の迷宮の守護者の一人。並のメイドとは気骨も違おう》》

 鉄神もゆっくりと移動し、結界球の後方、迷宮の方角に位置を占めた。さらなる追手を警戒してくれているようだ。小さな宮殿ほどもある首だけが、ゆっくり回転してこちらを向いた。

《《我等は……》》だが、そこで自分の声が後宮の住人達にとっては負担になると気付き、鉄騎に乗った軍神の方が後を引き取った。

『我等は君の主、魔人Rebis殿より、事あった時にはこの第四・第五階層を護るよう頼まれていた。これより先の旅路は、我等が護衛に付こう。自力で航行できるか?』

「は……はい、只今」

 慌ててコンソールに向き直るレイシャ。その手がふと止まり、おずおずと再度モニタを見た。

「あの……宜しいでしょうか」

『何だね?』

「もし……御存知でしたら、迷宮がどうなったか、教えては頂けませんでしょうか?」

 額を、汗が一粒流れる。初対面の、しかもこれほど高位の存在に対し、求められてもいないのに質問を発するなどという無礼な行為が、メイドとしての全神経に負担をかけている。

『残念ながら、私も詳しいことは知らない。守護者の一人が死んだと聞いているが……』

「守護者……!? その方の名前は分かりますか!?」思わず、コンソールから上半身を乗り出すレイシャ。

『イェン、と言ったな。地獄門を管理している東方の娘だ。私の所のエレミアもよく世話になっていた。残念だよ』軍神の言葉に応えて、編隊の一角で緑の翼がきらりと光った。

「そう……ですか」

 魔メイドとして、いや迷宮の住人としてあるまじきことだと分かってはいたが、レイシャは自分の心のどこか一部が、ホッと安堵するのを止めることはできなかった。「あの人」では、なかった。
 その「部分」が一体何であるのかは、まだレイシャには分からない。あるいはそれは、魔メイドの責務の邪魔になるものかも知れない。しかし今、レイシャは、不明瞭で、気まぐれで、暖かなその何かを。抹消せねばならないとは、考えなかった。

《《ふむ……聞いていた話といささか違うな》》突然、鉄神が声を発した。

《《Rebis殿の迷宮の魔メイドはいかなる時も私情を殺し礼を尽くす、メイドの鑑という噂だったが。さっきから見ておれば仮にも神たる我らに対し情を剥き出し、まるで同格のものの言い様。いやはや》》

 ゴウンゴウン、と巨大な頭が左右に振られた。責めているのではなく、むしろ楽しんでいるような調子だ。

「…………大変な御無礼を働きました。申し訳ございません」

 レイシャは、額をコンソールに突かんばかりに深々と礼をした。指摘されるまでもなく、骨の髄まで叩き込まれた魔メイドの掟がさっきから頭の奥で狂ったように警報を鳴らしている。神経の負担も最早耐え難いほどになっていた。
 だがそれでも、問わずにはいられなかったのだ。

《《それほどまでに、迷宮を大切に思うか?》》

「はい」

 躊躇のない答えだった。軍神は満足げに頷き、鉄神は口元の付近から笑っているような熱い蒸気を噴き出した。

『では、ゆくとしよう。君達の目指す場所、大いなる桜の花の咲く地はまだ遠い』

 軍神がマントをひるがえし、天馬の首を彼方へと向けた。百万の銀の翼に包まれた繊細な繭のような結界球は、灰色の次元の海の中を静かに滑り出した。



〈魔神の章・5へ続く〉



語注
・エレミア…天無人さんの「陽電子図書館」のリンクページ参照。