魔神の章・3
 (玄魔)



 絶え間なく紡がれ続けるおぼろな言霊の列を、紗のように纏い、雲のように踏んで、そのものは空から降りてきた。


∴鼻、城、関節技、フェンダ・パイル、釘で猫を掻いて色ガラスに透かしてみたくはないか? 火事・ゾラ・発条・賽子・コンビネーション、鯵とスパナで立ち上がろう、十二年目の月は電波のサラダを食べない∴


 言の葉の一つ一つが発するほのかな金色の光は織り逢わされてまばゆい光の輪となり、光に触れたメンバーズは、無存在砲は、機動破片は瞬く間に分解し淡い香りとなって散っていく。

 歪みの悟りを拓く者。狭間の県より来たる者。背光まばゆく金雲たなびく、二十七本の尾を持つ歪めし狐。





 原始自我尊、イグレック・O。





「……きれい……」メランが呆然と声を漏らした。

「何言ってんだありゃ?」セルージャが至極当然の疑問を口にした。

「注解してもええが、一日二日じゃ終わらん」玄魔が飄々と答えた。

《解析困難事象。解析困難動体。敵性レベル測定不能。要排除。糾弾腕スタンバイ》

 〈胴体〉……その外装甲も言霊に触れて何層かが剥離を始めていたが……がお定まりの結論を弾き出した。その口がばくうりと開き、ぬらぬらした長大な〈舌〉が伸び出してくる。

「ほ。何とも狭量なことよ」

「そりゃあ、そーゆー奴だからこんな所まで……呑気なこと言ってる場合かよ?」

「場合じゃよ。それ」

 銀の雷のように〈舌〉は金色の自我尊めがけ空を舐める。その軌道上、玄魔の指した一点にふと、縦一文字の裂け目が生じた。裂け目は拡がり、中から東洋風の衣を着た人影が一つ、無造作に降り立った。

 あれも魔神の一柱なのか? セルージャは訝る。身の丈も、外観も、普通の人間と何ら変わらない。体格に至っては並より痩せている。階層全土を揺るがせた先の「肉神」や、頭上に輝く金色の狐と比べると貧弱とさえ思える姿形である。
 〈胴体〉も、突然現れた小さな障害物に関し、同様の判断を下したらしかった。

《小規模攻性動体出現。推定敵性レベルB以下。戦闘行動ニ遅滞ナク排斥可能》

 侮辱的な宣言にも、人影は答えない。高々と腰に差さる、己の背丈よりも長大な水晶の剣がはらりと抜かれた。


 その剣一本で。
 虚無の中からかの〈Dの地球〉を斬り拓いたのだと、想像するのはいささか難しい。セルージャも、そしてこの兵神もまた、いささか想像力が足りなかった。


「夢想神伝流・改。錬続袈裟」


 刃が動いた。

「逸
 実
 惨
 熾
 悟
 戮
 執
 溌
 駆
 重
 ・決ッ!!!」

 一呼吸の間、何も起きなかった。
 それから、長大な舌は千と二十四の細片に別れた。地上に落ちる途中で己の本体と合流を試みたものもあったが、鏡のような切断面はそれを許さなかった。


 他の多くの神々と同様、彼もまたいくつもの名を持っている。今はただその中の一つ、一説によると三つ目の名だそうだが、その名で彼を呼ぼう。





 滅砕の魔帝。ヨッド・メーム・サメク。





 鬼の名で呼ばれる孤剣の魔帝はその鷹のような瞳でじろりと一目、パルボを見据え、それから消えゆくメンバーズ達を一瞥した。

「ふむ。やはり自分の眼で見ると違うものだな」薄い唇がつぶやく。

∴ああ、テーブルを買い過ぎた朝のように?∴エスの独尊、金色の狐が応じる。やはり意味は分からない。

「おい、そこの」魔帝は唐突にセルージャの方を向き、声をかけた。

「もう護衛もいらんだろう。姿を現したらどうだ」

 セルージャには何を言われているのか分からない。代わりに、

「お気付きに御座ったか」

 背後の地面から答える声があった。
 心底ぎょっとしたセルージャが振り向くと、背後に長く黒く伸びる自分の影の中に、ぼうっと人の姿が浮かび上がっていた。
 その男……多分……は影の縁に指をかけ、まるで風呂から上がりでもするように軽々とおのが身を持ち上げて影の上に現れた。頭の天辺から爪先まで、隙間なく漆黒の布で全身を覆っている。背には二本の小太刀。
 男が一歩を動いた。

「!?」

 ただ一歩を踏み出したとしか思えぬ間に、男はセルージャの視界から消えた。
 慌てて見回すと、いた。セルージャのすぐ後ろ、彼女とメランと玄魔とにちょうど正対する位置に、音もなく、気配もなく、影色の男は立っていた。黒ずくめの中に一箇所だけ光る鋭い両眼がセルージャを見、軽く会釈した。

「御身の影をお借り申した。忝(かたじけ)のう御座った」


 その名は、故国の言葉で「速力に優れた者」を意味すると云う。

 その号は、刃の扱いに巧みなる者に与えられる由と云う。

 光より疾く夜を駆け、闇より昏く悪を斬る。その迫る足音を聴いた者は無く、閃く刃を見た者も無い。
 死して尚屍を残さず、生きていようと影の如く。汝問うなかれ、闇を住処とするすべての者が畏怖を込めて囁くその名。漆黒のニンジャ・マスター。





 速秀・ザ・ブレード。





「どうやら、東方系の連中が揃っちまったようだな。見慣れた顔ばかりで少々鬱陶しい。おい、翁よ」魔神の顔ぶれを見渡し、魔帝が言った。

「先刻縁が出来た故、俺は上へ行く。後続もいるし、四柱もいればどうとでも凌げるだろう。それと判っていると思うが、この階層長くは保たんぜ」

 再び水晶の剣が軽く宙を薙ぐと、先程と同じように空間が一文字に裂けた。魔帝はその中へ無造作に飛び込み、姿を消した。

 それを待っていたかのようにパルボの口が開き、数知れぬ機動破片とメンバーズ達がわっと湧いてきた。ほんの一刻足らずで都合三度、数万体を潰されたにも関わらず、その量にも勢いにもまったく衰えがない。

「底無しかよ…………」セルージャが呻いた。

「否」腕を組み、パルボを睨み据えてニンジャ・マスターは低く呟いた。

「尽きぬ命は無く、枯れぬ泉は無く、果てぬ宴は無い。如何に深くとも、底はあるで御座る」

∴ところで、さっきからこの震動は何だろう∴

「へっ?」

 言われてみれば少し前からどこからか、びりびりと小刻みの震動が空気を、地面を揺らしている。否、地面の方が大気を震わせているのだ。遠く近く、何かが落下するような音が聞こえる。

「パルボの新手か?」本能的に身構えるセルージャ。

「違うよ」

 対照的に、メランは静かだった。

「次幻樹の命が、もう全部、無くなっちゃったんだよ。最後の力で、この階層を支えててくれたけど……それももう、できなく、なっちゃった」

 その声は落ちついていた。その瞳は乾いていた。セルージャはそっと手を、メランの小さな肩に置こうとして、やめた。


 メンバーズの軍勢が数を増すのに連動して、震動が一段幅を増した。ごごうん、と大きな破砕音が響き、右手に見えていた大きな根の盛り上がりが視界から消えた。

「…どうやら、もう少しすりゃあルキナとザラの面が見られそうだな。あいつら、ちゃんと生きてりゃの話だが」ぺろり、とセルージャが舌を出し、唇の端を流れる汗を舐めた。

「それはちと気が早う御座るな」とニンジャ・マスター。

「分かってらあ。あの化けザルを相手にして、こっちが生きてられたらってんだろ」

 問題の化けザルは立て続けに現れては邪魔をする諸神にとうとう業を煮やしたか、己の軍勢の中をかき分けるように真新しい〈舌〉をなめずりつつこちらへ迫ってくる。表情など無い筈のその白痴の猿面が、こころなしか激怒しているようにも見えた。

「いやいや、その心配は御座らぬが、その前にもう一方」


 打ち鳴らされた銅鑼の音は、何もかもをかき消した。それはパルボ本体の進行を止め、メンバーズをひっくり返し、次幻樹根脈の崩落を一層早めた。
 銅鑼は二度、三度と鳴り渡り、メンバーズ達がフライパンの上の炒り豆のように跳ね回る。床はいよいよ穴だらけになり、下層の神殿に常に満ちるラネーシアの香気がほのかに漂ってきた。

「ほう、ほう、ほう! 来よった来よった!」玄魔が嬉しそうに手を叩く。

 極彩色のきらめく雲のようなものがパルボの頭上に生まれ、見る見るうちに膨らんでいった。銅鑼の音はどうやらその雲の中から聞こえてくるらしい。やがて、堪えきれなくなったように雲の方々からまばゆい光が迸り出、ひときわ大きく鳴り響く銅鑼と共に爆発したかと思うと−−

 空気が、変わった。



 見よ!
 見よ!!
 見よ!!!
 慶雲倶風を後に引き、雷公電母を脇に侍し、遍く百方一打で服す、畢勝無法のその姿! 虚天飛び往き慈海を渡り、神山獄河も乗り越えて、果てなん遠き西土より、魔宮の危機とぞ参ずるは、碧神龍の神通と、仙虎の地訣を併せ持つ、万魔不当の大将神! さア遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ!! 西方楽土にその名も高き、二神の号を持つ男!!





「白虎神将碧龍眼、降劫天王・ここニ推参ッ!!!!」





 銅鑼の音にも鳴り勝る、天地が割れたかと思うような大音声はパルボ本体のセンサー類を一薙ぎに薙ぎ潰し、とうに限界を超えていた第二階層の基底構造を圧し砕いた。

 見渡す限りの根脈が泡立つ水のように雪崩れ落ち、上にいたメンバーズを巻き込み瓦礫となり粉となって舞い踊る。巨大な幹までもが、徐々に崩れながらゆっくりと下方へ沈む。もうもうと撒き上がる土煙の中、セルージャは素早く飛行結界を張った。上からはこれまた土砂降りのように無数の枯れ枝が降りそそぎ、結界の表面に漣を立てる。すぐ向こうで必死に翼を羽ばたかせているメランが、危うく抱えていたメリンを取り落としそうになり、セルージャは咄嗟に駆けつけて支えた。

「あ、りがと、セルージャ」

「なーに。それにしても魔神てのはまた、どうしてこう非常識な連中ばっかなんだろうな」

「申し訳なイ、姑娘(クーニャン)」

 緑の竜と白い虎とが刺繍されたきらびやかな甲冑をまとい、黒くつややかな髭を三千丈の後ろになびかせて、たった今現臨した当の魔神が枯木の雨を押し分けつつメラン達の元へ空を踏んで歩いて来、兜の目庇にふれて謝意を表した。玉(ぎょく)を埋め込んだような真丸の眼が、左右を睥睨する度にぎろりぎろりと音が立ちそうだ。

「龍虎将軍殿、遠い所をようこそお出で下さった。いやはや、なかなかに派手な御登場でしたな」

「我的故郷でハこれガ普通也」

 言葉尻のアクセントが微妙におかしいのは、よほど遠いプレーンの魔神なのだろうとセルージャは見当を付けた。ただ居るだけで周囲の空気がことごとく赤金緑の極彩色に塗り替えられていくのも、彼のプレーンの属性なのかも知れない。甲冑の意匠や些細な挙措などが、どことなくイェンに似ている……と言ったらイェンは怒っただろうか。


〈速秀殿、独尊殿、玄魔翁に龍虎将軍もおられるか。大過無いようだな〉


 少し前……もう、随分前のことのようにも思えるが……に聞いた、魂の底を震わせるようなあの声が再び響くと同時に、足元から猛烈な神気が吹き上げてきた。枯木の雪崩が一瞬吹き散らされ、驚いて見下ろしたメランとセルージャの目に映ったものは三つ。
 肉の山と、剣の海と、闇だった。

「……あれも、魔神なのかな」

「多分な」もはやセルージャもメランも、大概のことでは驚かない。


「拙者共は御覧の通りで御座る、肉神殿」ニンジャ・マスターが印を結んだまま器用に会釈した。「して、他の階層の首尾は如何に御座るか」

〈大神官殿からは先程報せがあった。海王殿、菅公殿も直に見える。やはり『かの御方』が最後になろう。そして、その後に………役者が揃うには、今しばし時がかかろうな〉

「ほっ、ほう! では、儂もそろそろ自分の持ち場へ参るとしますかの」玄魔がひょい、と空中で立ち上がる仕草をした。

「お前もどっかへ行くのか?」

「おうともさ。ちょいと、お前さんのネクロポリスへお邪魔するぞい」

∴ああ、それなら私も行こう。あの街には何かと世話になっているから∴

「え…!?」虚を突かれたセルージャが何か言おうとするよるのを遮るように、


「セルージャちゃん。これから起こることをよっく見定め、確と心に焼き付けておくがええ。何を見ても、何があっても決して目を背けてはならん。ええな」

∴別に僕のじゃなくてもいいんだが、これを渡しておこう。あとで多分、使いたくなるよ∴


 謎めいた言葉の残響だけを残し、老魔と金色の狐の姿はあっけなく消えていた。セルージャの手には、奇妙な紙切れの付いた短い木の棒……玉串という物だが、セルージャは知らなかった……がいつの間にか握られていた。

「ならぬ、セルージャ殿」後を追おうとするのを見越したか、ニンジャ・マスターが黒い忍刀の鞘でセルージャを制した。

「セルージャ殿には今より大事な御役目が待って御座る。御二方はセルージャ殿の代わりに、墓石都市をパルボより守りに向かわれたので御座る。追ってはならぬ」

「御役目……?」

「左様に御座る。なれど今はまず、あれなる方々と合流されよ」

 ニンジャ・マスターが指差した下方から、三神の間を縫って一つの球体が浮上してきた。セルージャ達の方へ近づいてくるにつれ、それが結界球であることが判る。内部には三つの人影がおぼろに見え、一つは立ち、二つは座っていた。

「Rebis様!」メランの声がぱっと明るくなった。

「御主人!それにルキナと、ザラ! 無事だったのかよ!」

 結界球は目の前まで来て静止し、すこし体積を増してセルージャとメラン、メランに抱えられたメリンをすっぽり取り込んだ。球体の内壁に力無くもたれ掛かるルキナとザラを見る限り、この結界はダンジョンマスター自身が張っているらしい。それに気付いたメランが、慌てて姿勢を正した。

「やっほー、セルージャにメラン。元気だった?」口調こそいつも通りだったが、ルキナの声には流石に力が欠けている。

「…………」ザラは黙ってそっぽを向いた。おそらく、不様な状態の自分を見られるのが耐えられないのだろう。

 ダンジョンマスターが口を開いた。

「セルージャ。メラン。それにメリン。三人共、よく頑張ってくれた」

 その言葉で糸が切れたように、メランがへったりと座り込む。そのままうつむき、声もなく肩を震わせて嗚咽した。ザラ=ヒルシュが……信じ難いことに……その頭にそっと手を置き、優しく撫でてやった。

「御主人。これから、何が始まるんですか」

 メランと対照的に、セルージャは黒いバイザーを真っ向から見据えて問いかけた。手の中で静かにちりちりと唸る灼炎剣も、同じ答えを求めているのが分かる。
 魔人の答えは、ひどく簡潔だった。


「夜が始まるのだよ、セルージャ。魔神達の夜が」


 結界の外では枯れ木の雨が降り続け、パルボと魔神達の睨み合いもまた、終わることなく続くかに見えた。



〈魔神の章・7へ続く〉





語注
・やはり自分の眼で見ると違う…巫女子の章・1参照。

・玉串…巫女子の章・2において、巫女子が「塔」のサロンの勇者達に託した玉串の中の一本。無論他の魔神も皆同じ物を持っている。本来、神が自分に捧げられた玉串を他人へ渡すなどもっての他だが、ここで独尊は予見に従い、敢えて禁を破っている。魔神の章・7参照。