魔神の章・2
 (玄魔)



 それは、巨大な肉の山に見えた。それは、あまりにも完璧に美しすぎる肉体にも見えた。時にはそれは、腐肉をぶらさげた髑髏にさえ見えた。

 千の姿を持つ肉の王。明日を操る未来神。戦女達を従えた淫らなる闘神。無数の呼び名はどれも真実であり、そしてどれも真実のすべてではない。だがどちらにせよ、名前など今はどうでもいいのだ。どんな名で呼ぼうと、彼の愛するこの迷宮を汚したこの者達にはもはや明日など無いのだから。

 時と肉、淫と武とを統べる未来城の主。そう、それは例えばこんな名だ。





「アーセカ殿」





 見上げたバイザーの中で、赤い星がうごめく。寡黙なるダンジョンマスター・Rebisは空を覆うその現し身を見渡し、静かにその名を口にした。

「ふーん、あれがアーセカかあ。随分かさばる格好なんだね」
「ルキナさん……あなたには礼儀や節度というものがないんですの? 仮にも聖三字〈A.S.K〉の神が自ら現臨されたというのに!」

 艶やかな眉を吊り上げたザラ=ヒルシュの視線を、ルキナはいつも通りどこ吹く風と受け流した。まったく、腹が立つほどいつも通りだ。ほんの数分前までおのが身を元始の大海へ投げる覚悟を固めていたとはとても信じられない。
 ルキナのそういう所が、自分は大嫌いなのだ。と、ザラもこれまたいつも通りの感想を弾き出した。


 迷宮第三階層亜層、スラーネッシュ神殿……跡。
 いまだ土煙を立ち昇らせる瓦礫の山の、頂に立つ黒いローブ。双眸を覆う一文字のバイザーと、背に括られた斬聖剣は、並ぶ者無きダンジョンマスターの証。
 その少し下方に並んで控える二人のケイオス・ヒーロー、ルキナとザラ。膝を突き屈み込んでいるのは、主に対する礼儀からばかりではない。萎えることなど知らない筈の二人のペニスまでが今、力無く両腿の間にぶら下がっていた。
 さらにその下、山のすそ野に散らばる、主に劣らず満身創痍のスラーネッシュの戦士、戦奴達。それから、廃虚の影に隠れた非戦闘員。

 それが地上の情景のすべてだった。ほんの一瞬前まで彼らの間を文字通り埋め尽くしていたメンバーズ、触手群、砲門群は今、跡形すら残さず消え去っている。一体どうやって、どこへ消えたのか、戦っていた当の戦士達ですら皆目分からなかった。

 そして消えた敵と入れ替わりに現れた、あの巨大な「肉」がこの亜層の天を塗り潰して滞空し、それへ拮抗するようにパルボの二本の兵装肢、〈左腕〉と〈右翼〉……「最終原初絶滅モード」とやらを解放した今、どちらもその名前とは似ても似つかぬ姿へと変形し果てていたが……が身をよじり合って上空から伸びている。ざっとこんな所が、現在の第三階層亜層の景観だった。


〈遅くなった、御主殿。急ぎ支度にかかる〉


 肉神の言葉が瓦礫をびりびりと震わせ、第三階層亜層に轟き渡る。その、ただの二言三言に込められたプレッシャーの強大さに、パルボの兵器共を「消した」のはこの神であると、この場にいる誰もが理屈抜きで納得した。
 戦士達の何人かは、自分でも気付かぬ内に跪いて礼を取っていた。ヴェスタ、マチルダ、シェム、ジェナ、ディータ、セリオス。この肉神を霊の母とする者達が、己の魂の奥底でそれを関知したのだ。


「巫女子は無事ですか」

 ダンジョンマスターの言葉は、ルキナにもザラにもやや唐突に聞こえた。兵神が襲ってくるが早いか金目のものを残らずかき集めて逃げ出した(らしい)、あの憶病な新参者が魔神達と何の関係があるのだ?

〈儂が最後に観じた時は「かの神」の真っ直中におった。塔主殿が何とか救い出そうと躍起になっておったよ。いずれ、あのお人に礼の一つも言わねばならぬのではないかな、御主殿〉

「『彼』が私のために指一本動かすはずはありません。向こうには向こうの思惑があってしていることでしょう。礼など無用ですよ」

 肉神は、奇妙な脈動音を発した。人間で言えば苦笑に相当するのかも知れない。どちらにせよ、その短い問答の意味を理解できた者は、そこには誰もいなかった。


《警告。新規攻性動体出現。推定敵性レベルA++オーヴァ。第27メンバーズ大隊消失ト関係アリヤ? 危険。要排除》

 いい加減耳になじんだ金属音声が、耳になじんだ結論を弾き出した。〈翼〉はその巨大な機動破片ファランクスをゆっくりと差し上げ、〈腕〉は五本の指を、あの傲慢な光を放つ五門の有害砲へと変える。二本の兵装肢が滑らかに移動し、肉神を挟み撃ちにするポジションを取った。
 見上げる戦士達の胸に戦慄が走る。それは、自分達の神殿を瓦礫の山に変えたフォーメーションだ。だが肉神は動じなかった。

〈どれ、いつまでも儂一人が場所を塞ぐわけにもいかぬか〉

 と、天を覆い尽くさんばかりだった肉の山が、見えない唇に吸い込まれるようにするすると縮み始めた。縮むにつれ、その向こうに現れて来たのは今まで隠されていた迷宮の天井……ではなく、
 星空だった。
 否、星空のごとくに見えるその姿は……


 銀色に輝く、幾千本の剣……それとて「彼」の数万分の一に過ぎない……が清冽な豪雨となって降りそそぎ、パルボ〈右翼〉から今しも飛び立った機動破片の一つ一つに命中し、切り裂き、粉砕した。くもり一つ無く地上に突き立った剣はきらめく霧となり、再び天へ帰ってゆく。後には、羽をむしられた手羽先のようになった惨めな〈翼〉が残った。


「あの方は……!」誇り高きザラ=ヒルシュが空を仰ぎ、ほとんど本能的に身を強ばらせた。横目で見ながらルキナがへえ、という顔をする。軽い地響きが足元を揺らし、振り返ればゼブジールがその巨大な両膝を地に突いていた。



 その姿は、億の剣をもって表されると云う。


 星神の円卓がどれほど必死になって彼を追放しようと。天界の碑板から一つ残らずその名を削り取ろうと。あまりにも強大なその力の証、無窮なる天球に深々と刻まれたその恐怖の記憶までも拭い去ることはできない。

 仰ぎ見よ。彼はいつでもそこにいる。





 天に輝くつるぎの王者。剣星シリウス。





「………あれが、剣星………!」握りしめた手から飛び出さんばかりに震え、唸り、暴れ回る天狼剣を必死に抑え込みつつ、女騎士セリオスもまたその剣の星海を見て絶句した。己の手の中で痛いほど張りつめているこの愛剣が、元はあの星々の中にあって輝いていたものであることが、言葉でなく直感として伝わってくる。

「…天狼よ…………お前も、還りたいか……?」

 恐る恐る、問いかけてみた。星界より堕ちた剣はさらにしばらく悶えた後、諦めたように、あるいは満足したように静かにセリオスの両掌に収まった。
 しっくりと手に吸い付く、握り慣れた感触。なぜだかほのかに嬉しくなって、セリオスはひんやりとした刀身をそっと抱きしめて頬に当てた。




 輝く剣の雨は強大で、そして美しかった。そのまばゆさに魅せられ、皆が一瞬ではあったが、あることを忘れていた。つまり、今にも攻撃に移らんとしている兵装肢がもう一本あるということを。

「!! 待てよ、おい!」最も迅く思い出したのはギルディアだった。そして、ほとんど同時にラディアンスも。

 剣の雨が降ったその反対側の天で、全身を稲妻にくるまれた〈左腕〉が五本の指を地上に向け、その先端に金色に輝く五つの光弾を限界近くまで膨らませていた。

 0.1秒。ギルディアとラディアンスが同時に、弾かれたように飛び出した。

(オレとラディアンスが一発ずつ……)0.2秒。ギルディアが思考する。

(……体で止めて、残りは三発)0.4秒。ラディアンスの脳裏をスパークが駆けめぐる。

(……何人、生き残る!?)0.6秒。同時に、絶望的な結論に達して。

 0.8秒。光弾が発射され、

 0.9秒。五発とも消滅した。


 1秒。そこには、何もなかった。
 否。そこには「彼」がいた。



 彼が一体「何」であるのか? その問いに答えが与えられることは、恐らく未来永劫無いだろう。
 彼の姿を捉えることは誰にもできない。光も、音も、思念さえも、すべては彼の領域へと吸い込まれ、そして二度と出てくることはない。


 そこにあるのは闇のただ闇。かつて一人の狂える詩人が紡いだわずかな言葉だけが、彼の姿への唯一の手がかり。曰く

〈彼の者と対峙する時光無く、風無く、刻も無し。
 彼の時我が前には常永久に、真なる闇のあるばかり〉。





 絶対座標を内に蔵するブラックホールの母王。〈常前真闇〉。





「………お久しゅうございます……」ファルカナとリュカーナが、深々と身を屈めた。心を持たぬギルメイレンが、主の命もないのに服従の姿勢を取った。瓦礫の陰でミアが泣き止み、降誕祭の夜にオーロラを見るような眼で頭上の闇を見上げた。


「剣星殿、真闇殿、御二方もお越しでしたか。これほどの名だたる魔神方を、三柱も同時にお迎えするとは望外の喜び」芝居がかった仕草で両手を掲げ、ダンジョンマスターが朗々と歓迎の意を表する。

〔ふっふ、世辞も過ぎると空々しいよ、御主人殿〕澄んだ鉄琴の音色に似た、剣星の声が響き渡る。可笑しくて堪らぬといった調子で、〔とうに感知しているのだろう? 三柱どころなものか〕

【然り】母王真闇も応ずる。見かけから想像される通り、闇の底から響いてくるような深く低い声だ。

【今より未曾有の力がこの地に集う。今より、魔神達の夜が始まる】

 大気が激しく鳴動した。震動の元は神々の向こう、この亜層の遥か天井を成す層壁だ。
 ザラの傍らに、何か乾いた堅いものが音を立てて降ってきた。
 拾い上げた側に、もう一つ。
 挙げた視線の先に、また一つ。
 雪のように、塵のように、あるいは瓦礫のように無数に降り落ちてくるそれは、灰色にひからびた木の根だった。

「…次幻樹が、力尽きましたのね」努めて平静にザラが言った。

「そっか。メリンとメランに会えるねえ。まだ生きてればだけど」ルキナの声は平静そのものだった。声だけは。

「………」ダンジョンマスターは無言だった。

 すべてを圧して、肉神アーセカの声が重々しく大気を満たした。

〈急ごう、神々よ。我等に残された時は少なく、成すべき事は多い〉




〈魔神の章・3へ続く〉


語注
・バイザー…諸処に見られるダンジョンマスターの図像はいずれも横一文字のバイザーを着け、中に赤い光点が輝いている。このバイザーはダンジョンマスターの両眼から発射される、自身でも制御できない強力なエネルギーを抑えるためのものらしい。『X-MEN』のサイクロップスに酷似しているが、ほんとにパクったのかどうかは不詳。

・斬聖剣…名をザンバラと云う。聖属性、法属性、男性に対してすさまじい攻撃力を発揮し、数知れぬ英雄達(もちろん全部男)の血を啜ってきた魔剣。

・降誕祭…勿論、キリスト教のそれではない。ミアのいたプレーンにも独自の聖祭があり、そこではオーロラが特別な意義を持つのだろう。