魔神の章・1
 (玄魔)



 荒れ狂うマグマのような怒りの海のどこか片隅に、奇妙なくらい冷静な思考回路がぽつんと浮かび、己の命のカウント・ダウンを冷静に、確実に刻んでいた。

 有り体に言って、それは今までのセルージャ=ガレリア=ストラストヴァロスでは考えられないことだった。どんな強大な敵に対しようと、自分が負ける可能性など一瞬たりとも脳裏に浮かんだことはない、それが戦士セルージャの誇りであり、また欠点であったのだ。だが、この数刻で経験した戦いと、そして右手に握った剣から脈を打って心の中へ流れ込んでくる何かが、セルージャの中に奇妙な変化を生じさせているようだった。
 局所的な戦闘力ではこちらが優っている。今しも除籍デバイス数本を立て続けに斬り飛ばしながら、その奇妙な部分は落ち着き払って分析を続けていた。一群の砲門、一本のデバイス相手になら負けはしない。だが、潰した砲の背後、切り裂いた装甲の奥に深々と広がる、まるで底の見えない〈本体〉の耐久力と修復能力に、抗し切れるとは到底考えられない。

(ハッ、「抗し切れるとは考えられない」だってよ。……どーしちまったんだろうな、オレは?)皮肉っぽく呟こうとしたが、

「ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 実際に喉から迸ったのは、割れんばかりの戦の雄叫びだった。ふむ、この方がよっぽどオレらしい。そういや、戦ってる最中こんな風にすましてモノ考えてるなんざ、いかにもあいつがやりそうなことだよな。
 あいつって? ほら、あいつさ。

《第3兵装肢帰還。緊急整備、即時臨戦モードニ移行》

 今やこの第二階層をほとんど隙間無く埋め尽くした触手や砲塔や刀身やメンバーズ共の彼方、どうやら〈左足〉の化け物のように見える巨大なパイプの塊が新たに加わったのを視界の隅に捉え、セルージャは頭の隅のカウント・ダウンがさらに一段階速度を早めるのを感じた。




 戦場のすぐ傍らでは今、一人の少女がある決意を固めたところだった。
 第二階層の守護者……否、もと守護者メランは膝の上に横たえていたもう一人の守護者の体をそっと抱き上げ、背後にそびえる巨大な枯木のうろまで苦労して運んだ。
 心材にまで達する深いうろの最奥部には、まだいくらかの淫力の残滓が残っている。ここならば、メンバーズも当分入り込んでは来られない。桃色の樹液が滲んでいるそばへ動かぬ相棒を丁寧に横たえると、立ち上がって頬を汚す涙の跡をごしごしと拭う。

「……これからは、あんた一人が次幻樹の守護者だからね。…………しっかり、してよね………姉さん」

 それだけそっと呟き、淫魔メランは眠るメリンに背を向けた。外へ……戦場へと歩み出すその瞳に、覚悟を宿して。




 目がさっきからひどく霞む。左脚の感覚も完全に無くなった。牽制で放たれたはずの光弾をかわし損ねて肩に食らい、剣を落としそうになって慌てて堪える。撃った砲筒を斬り落とそうとしたが、目測を誤って先端が削れただけだった。毒光を滲ませた触手の一本に腕を取られ、切り払うより早く二本、三本、次々に腕に胴に絡み付く。

(…………そろそろ、か……)

 カウント・ダウンは、終わりに近づいていた。




 小指の先を強く噛む。ぷっくり盛り上がった血の球を、体操服の胸に描かれた六芒星の中心に押し当てると、ぱあっと体の内側から光がほとばしり、メランは翼を精一杯広げて空に舞い上がった。凶神と魔導看護婦との目眩くような戦いが眼下に広がる。まるで嵐の海を見下ろしているようだ。
 メ一族は性力ばかり達者で戦いはからきしだと、口さがない輩は言う。それが根も葉もない風評であることを、我が一族は戦えないのでなく戦わないだけなのだということを、今この場で証明してみせる。残り少ない魔力を全部絞り出して一撃に集中させれば、あたしだって。せめて一太刀、浴びせるまでは!




 オレの体の最後の一素霊子が虚無に呑み込まれようと、奴にオレの魂まで屈服させることは決してできない。最期のその瞬間まで、オレは戦いをやめない。顔を伏せない。
「……負けるかよ………!!」




 熱い塊が下腹からこみ上げる。あたしはセルージャのようにうまくは戦えない。この塊を確実にアイツにぶつける方法は一つしかない。震えるな、あたしの体。怯えるな、あたしの心。
「……負けないよ………!!」




 二人の戦士がそれぞれの覚悟で、同じ言葉を呟いた、その時。







「ほっ、ほっ、ほう! やれ、どうにか間に合ったようだの」







 竜巻が……そうとしか思えないものが……階層の天井付近に渦を巻き、恐ろしい速度で地上に向かって降ってきた。
 それは地に接するや否や物凄い衝撃波を発生させ、ひしめく無数の兵装群を一瞬で消し飛ばした。衝撃波はそのまま同心円状に拡がってゆき、粉々にされたパルボ兵装群の残骸が作り出す大嵐が一帯に吹き荒れる。セルージャに止めを刺すはずだった一本の触手も、メランが標的に定めていた一群の砲門も、その嵐で一緒くたに吹き飛ばされた。



〈三 魔 見 参〉



 その声は大気ではなく、心を直接震わせて、その場にいた者達の頭の中に響いた。嵐の目、竜巻の柱が晴れて、三つの陽炎が立ち現れる。


 一人は、闇を練ったような痩身。背後に広がる夜闇は翼。光という光がそこだけ抜け落ちた漆黒のシルエットの中、二つ並んだ三日月がきらめいた。


 一人は、山に刻んだような巨躯。赤の道着に覆われた鋼の肉体。吹雪のような白い蓬髪の下、片方しかない眼がぎらりと堅い光を放った。


 そして最後の一人を、セルージャは知っていた。東方風のぶかぶかの絹衣に身を包み、長い白髭をなびかせた、皺くちゃで色黒の小さな老人。


「…………爺ィ……!?」

「ほう、ほう、その通り! 愛するセルージャちゃんのピンチを救うため、この奥玄の爺めが助っ人を引き連れて駆けつけたぞい」

 聞き慣れた口調、見慣れた姿。墓石都市へ現れては助平たらしくちょっかいをかけ、セルージャの本気の拳をいつも紙一重でかわして逃げ去るクソ爺。
 だが、セルージャはいつものように怒鳴り返さなかった。怒鳴る余力など無いというのもあったがそれ以上に、見慣れた筈のその矮躯から、そして左右の二つの影からも立ちのぼる、圧倒的な、まごう方なき、炎のような威厳に圧されて言葉が出なかった。

 嵐は拡がるにつれて拡散し、やがて微風となって止んだ。メンバーズをはじめとする武装群は一体残らずどこかへ消し飛び、後には取り残されたような〈胴体〉があるばかり。セルージャから少し離れた所に、ぽかんと口を開けて地べたに座り込んでいるメランが見えた。多分、自分も同じような顔をしているのだろう。

「ははあ、君がセルージャか。ふーん、へーえ、ほおー。なるほど、爺様のモロ好みだわ」

 いつの間にか背後に立っていた漆黒痩身の魔族が、セルージャの体を上から下まで眺め回し、したり顔で頷いた。ぎょっとして、何が言い返そうとしたがそれより先に、

「娘」

 岩が鳴るような声を浴びせられ、慌てて振り返ると、そこにはもう一人の来訪者がそびえ立っていた。
 近くで見ると、まるで山そのものを見上げているような眩暈に襲われる。それはただ体が大きいというだけではなく、想像を絶するほどに鍛え抜かれた肉体と精神とが放つ質感に威圧されているのだと、セルージャは自覚した。この男も、武闘家なのだ。それも、途轍もない技量の。

「その剣を見せては貰えぬか」

 自分でも驚くほど素直に右手の剣を差し上げると、面積にしてセルージャの三倍はありそうな巨きな手がそっと受け取った。無骨そのものの指先が、意外に繊細な仕草で刀身を撫でる。

「…………剣に残念したか。不覚を取ったな、イェン」

 岩のような貌に現れた、かすかだが深い悲しみの情。それを見て初めて、セルージャはこの男が誰なのか判った。無極伐皇紅蓮拳の創始者にしてティー=トゥー=イェンの師匠、東海六魔が第五魔、天涯無角。

 違う、違うんだ。不覚を取ったのはイェンじゃない。

「お……」

 言葉は乾いた唇にへばりつき、出ていかなかった。無角はそんなセルージャへ一顧だに与えず……とセルージャには思えた……灼炎剣を携えたまま、聳え立つパルボ〈胴体〉にひたと眼を据えると、

「夜。先に往け」

 ぽつりと言った。

「なんだ、意趣返しか? 結構根に持つタイプなのな」

「一番目をかけていた弟子だった」簡潔な答えだった。

「分かった分かった」夜、と呼ばれた男は肩をすくめ、「じゃあ爺様、後はよろしく」

 背の翼がばさりと伸びると、その輪郭だけ空が切り取られ、吸い込まれそうな深い夜の色が拡がった。
 夜の翼、三日月の瞳、四枚の舌を持つ闇の公子。東海六魔が第六魔、聖夜行路は軽やかに空へ舞い上がり、勿体ぶった仕草で地上に一礼すると、背後の夜の中へ手品のように姿を消した。


「あ」

 セルージャの背後で、メランが驚愕とも恐怖ともつかない細い息を漏らすのが聞こえた。振り返ったセルージャの視界は、銀色に染まった。

 例えば夏の暑い日に、拭っても拭ってもにじみ出る汗のように。

 たった今一掃されたばかりのメンバーズは、まるでそんな事実など無かったかのように、以前と全く変わらぬ数、いや増しさえしたかも知れない圧倒的な数で、砂煙の彼方、セルージャ達を遠巻きに取り囲んでいた。囲んでいるだけでなく、その囲みを徐々に狭めつつあった。

 深くよどんだ疲弊の淵から、再び戦意を引き揚げようとするセルージャを手で制し。
 天涯無角がだまって一歩、前に出た。迫り来るメンバーズの群に向かって至極無造作に足を踏み出し、
 地に下ろした。
 すべてのメンバーズが一瞬で粉々になった。


 最初、何が起きたのか理解できなかった。
 それがティー=トゥー=イェンの使っていた「無極」の遥かに窮まった形だと悟った時には、灼炎剣が高々と振り上げられ、虚空に向かって打ち下ろされていた。

《ガガッ》

 彼方で、猿が奇妙な声を上げた。その〈左眼〉付近に突き出していた一群の砲門……イェンを消し去った、まさにその砲群……がきれいに削ぎ取られ、鏡のような断面を晒していた。

《ガ、ガ……左、ム、存在砲門群ニレベルA+++ノ障害。緊急修復ヲ要ス。緊急…》

 唸りを上げて再生を開始するパルボにはもはや目もくれず、無角はもう一度セルージャへ向き直った。見下ろす鋭い隻眼に湛えられた光は、セルージャの予想していたものとは少し違っていた。

「娘よ」

 無角は右手に握った剣を、セルージャの前の地面にそっと突き立てた。

「時が来るまで、ぬしが携えていて欲しい」

「……!!」

 赦す。そして、託す。
 それはそういう意味だった。

 セルージャが、胸に詰まった思いをどうにかして言葉にしようとして、それに成功する前に。無角は深々と一つ礼をし、

「佳き友を持った」

 一陣の砂煙と共に、その巨体は跡形もなく消えた。



「あれはあれでな、お前さんに感謝しておるのよ。根っから不器用な男じゃでな」 

 立ちつくすセルージャに、玄魔が後ろから声をかけた。

「さてメランちゃん、あんたもそろそろ立つがええ。もう二度と、特攻しようなどと考えるんではないぞ」淫魔の少女は言葉もなく、こっくりと頷いた。

「向こうの樹の中にメリンちゃんがおるんじゃろ? あれは淫樹の雌木じゃでな、儂等では迂闊に触れん。今の内に、急いでこっちへ連れて来なさい」

 メランがよたよたと浮かび上がり、〈胴体〉を大きく迂回して次元樹へと飛んでいくのを確認すると、

「それから、セルージャちゃん」宙に腰掛けたまま、老魔族は今度はセルージャの正面へ回り込んだ。

「今まで戦うて骨身に沁みたと思うが、あの化け物にはお前さんは勝てん。儂でも勝てん。お前さんの御主人でも、まあ敵わんじゃろう。あれは、そういったモノじゃ。
 それでも、まだ戦うかの? このまま寝転がって死を待っておっても、だーれもお前さんを責めはせん。セルージャ=ガレリア=ストラストヴァロス。
 行く手に何が見えずとも……お前さんは、戦えるかな?」


 パルボは早や修理を終え、ふたたび攻勢に転じようとしている。二度まで一掃されたはずのメンバーズも、引いた潮が戻ってくるように数を増しつつあった。あれだけ攻め込んだにもかかわらず、戦況はほとんど何も変わっていない。つまり、絶望的だ。
 だが。

「……ふざけろよ」

 セルージャは、迷いなく手を伸ばして剣を掴んだ。

 それを支えに震える脚で立ち上がり、見つめる玄魔の目をひたと睨み返して、ニヤリと笑う。玄魔もまた大きく頷き、満足そうな笑みを返した。

 その時、もう一つの声が第二階層を揺るがせた。


〈翁〉


「わっ!?」セルージャは思わず肩をすくめた。玄魔が不満そうに辺りを見回す。

「なんじゃい間の悪い。これから二人の愛が熱く盛り上がるいい場面じゃったのに」

「誰が盛り上がるか」突っ込みを入れつつも周囲を見回す。

 腹の底を突き上げるような大音声だったが、不思議にうるさいとは感じない。玄魔達が降りてきたときと似ているだろうか。

「ゆっくりのご到着でしたな、肉神殿」セルージャと対照的に、心安げな口調の玄魔。この爺は声の主を知っているのか? だが聞こうとする前に、再び声は轟いた。

〈やはり翁等のようには現し身に慣れておらぬ故な、手間を取った。結局、人の器には収まり切れなんだよ〉

「ほう、ほう! それは見ゆるのが楽しみじゃ」玄魔はさも楽しそうに、空を仰いで笑った。「では、早よう現臨めされい。この下で御主人もお待ちかねですぞい」

〈うむ、挨拶をして来よう。他の諸神方も追い追い着く筈。差配を頼むぞ〉

 現れた時と同じように、声は突然消えた。後に残った静寂が耳に痛い。思わず周囲を見回したが、勿論何の変化もあろうはずはなかった。

「誰なんだ、今のは?」セルージャがようやく疑問を口にした。

「あたし、知ってる。未来城の肉神様でしょ?」背後からメランが素っ頓狂な声を上げた。メリンを抱いて息を切らせている。

「?」

「メランちゃんの言う通りじゃが、お前さんは籠もりがちじゃから知らんかもしれんな。〈A.S.K〉というトリグラマトン(聖三字)を聞いたことはないかな?」

 その名なら知っていた。この迷宮の旧市街を訪れる魔神達の中でも、筆頭格に挙げられる肉の魔神だ。淫と武を嗜む者として、一度はセルージャも祈りを捧げたことがある。多産の神でもあり、昨今隣のラネーシア神殿に贈られてくる混沌戦士や奴隷の、実に半数近くにはその聖三字が霊刻されていると以前アヴィダヤから聞いた。

「そんな凄い魔神が、何だって…」この非常時に、と言いかけてハタと気付いた。「…まさか、助太刀に? 魔神自ら!?」

「当ったり前じゃい」何を今更、と言わんばかりの顔をして玄魔がセルージャを見返す。萎びた口の両端がゆっくり持ち上がり、実に人の悪そうな笑みを形作った。

「この迷宮の行く末を案じておるのが、儂等三人だけだとでも思っておったのか?
 来ておるとも………この上なく力ある、諸神方がな」




〈魔神の章・2へ続く〉



語注
・夜…ここでは「や」と読む。むろん聖夜行路のこと。「よる」と読まないように。

・トリグラマトン…聖三字。直接口にするには畏れ多い神名を、アルファベット三文字で表す神学上の手法。〈A.S.K〉〈J.M.S〉〈S.Y.O〉などが有名。

・現し身…普段は実体を持たない神々が、現世で力を揮うために一時的に肉のボディを得ること。今回の肉神アーセカのように、慣れないと思い通りの姿を取ることは難しい。玄魔ら東海三魔はこの現し身の術に長けているため、先遣隊として他の諸神より先に迷宮内に現臨した。
#ちなみに諸神が現し身にどれだけ慣れているかは、掲示板でのロールプレイの頻度と対応しています。

・セルージャも一度は祈りを捧げたことがある…#要は、A・S・Kさんがセルージャの絵を描いたことがあるということ。