終章
(玄魔&Rebis)




 最初にそれに気づいたのは、メランだった。


「………あのさ。ここ、傾いてない?」


 さっきから妙に体が一方向へかしいでいることには、セルージャも気づいてはいた。単に疲労とダメージのせいで体感覚がおかしくなっているのだと思ったが、どうもちょっと違うようだ。
 シオン=ヴァイアランスの豊穣なる精液によって生命力を取り戻したとはいえ、破壊された建造物や崩落した地盤がすぐに元通りになるわけもない。むしろ白い奔流はそちこちに積もっていた瓦礫や残骸を一気に洗い流し、今や迷宮は廃墟を通りこしてほとんど一宇のがらんどうと化していた。……そのただ中に浮遊する結界球の中で言うにしては随分おかしな言葉ではあったが、しかし事実はメランの言った通りだった。

「動くな」

 様子を見ようと、ルキナ達の結界球まで上昇しかけたセルージャに、ダンジョンマスターが鋭い声を浴びせた。セルージャが慌てて静止すると、

 ぐう……ん

 わずかに、ゆっくりと、だが間違いなく、迷宮全体が、揺れた。

 緊張感に満ちた静寂が数秒、その場を支配した。しかしその意味するところを誰一人正確に咀嚼できない先に、沈黙は下方からのけたたましい声によって破られた。

「おにゃにゃにゃにゃっ!ザザザラザラザラザラ様ーーっ!」

 迷宮外壁の中ほどに張り出した棚……かつての神殿の床……から、カナディア(フルバーニアン)に抱えられたザナタックがものすごい速度で上昇してきた。常識的なことでは決して取り乱したりはしない彼女が血相を変えている。その一事だけで、事態が尋常でないことを皆に理解させるには十分だった。いまだパルボの中心核域に横たわっているセルージャの脇をすっ飛ぶようにすり抜け、ザラ達のいる結界球の位置まで上昇するやいなや、矮躯のケイオスドワーフは機関銃を束にしたような速度でまくし立て始めた。

「いいいい一大事いや百大事天地大乱的非常事態ですのだ! 幻想72次空間軌道の平均霊嗣律度が3.7イーハトーヴォ毎ウクバールまで上昇している一方でシニシス界間レートのイールドカーブ曲線が四階微分で魔笛デフレーションを起こしていますのだ。さらにヤン虚軸鏡像小管組織における子実体光子の偏霊性を検定したところD-メキレル逆転現象が頻度197/63220で観察されるため、このままだとボルヘス比例両軸モデルの第三オプションにおけるレムリアン・コール型遷移現象が陰分散的に有意と判定される可能性が極めて大なのだ!」
「何ですって!?」
「何だって?」
「おそらく先のテルミドール崩壊により金鍵領域で八葉コントラディクションが発生し、それが上方霊離層のアマンダ平衡に作用した結果として環銀河レベルでのマジソン飽和が起こり、さらにその波及効果が……」
「待ってちょっと待って。もーちょっとその、普通の人にわかる言葉で話してくんないかな」
「もうすぐここが壊れてバラバラになるってことだよ」

『えーーーっ!!?』

 メランと、下方で耳をそばだてていたセルージャが同時に頓狂な叫びを上げた。
 冗談ではない。これだけの思いをしてやっと奴を……パルボIQを倒したというのに、幕引きが迷宮の崩壊では笑い話にもならない。

「どどどどーゆーことよ、それーー!!」
「だからそれを今説明していたのではないかのだ。つまり幻想72次空間軌道の平均……」
「つまり、あの下司な破壊神のおかげで霊幹に深刻な損傷を受けたところへ諸魔神が次々に降臨され、さらにヴァイアランス様(この名を口にするとき、彼女はまだ少し陶然とした表情になった)までが現臨あそばしたために、迷宮の耐霊圧構造が限界を越えてしてしまったのですわ」ケイオスドワーフの流れるような熱弁を遮って解説を入れたザラは、そこまで言って豊かな赤髪を忌々しげにかき上げた。
「これだけの霊的質量が一所に集まることなど普通ではまず考えられないことですから、無理もありませんけれど。むしろ今この瞬間に粉々にならないことを誉めてさしあげたいくらいですわ」

 結界球の外に浮遊するダンジョンマスターが、それはどうも、というように軽く肩をすくめた。

「……つまり、重い奴が集まりすぎて床が抜けたってことか」
「あなたの知能程度に合わせて説明すれば、そうなりますかしら」
「何だとう」
「ケンカしてる場合じゃないでしょー! どーするんですか、ご主人様!?」
「どうもこうもない。ここの耐霊圧構造が限界なのは事実だ。そんなものは私にだって止めようがない」
「そんなー!」

 泣きそうな顔のメランを見やり、ダンジョンマスターはいつの間にか着けなおしていた緋色のバイザーをつっと中指で直すと、人の悪そうな笑みを浮かべた。

「何もしないとは言っていない。問題なのは、その後にどうするかということさ」


***


「ほえーーーー…………」

 何度目になるかわからない感嘆の声を、メランが漏らした。
 そんな声を何度漏らしたって足りないくらいだった。獣耳を覆うやわらかな毛を、次元の狭間を吹く風が軽くなぶっていき、冷たいようなくすぐったいような辛いような空っぽなような不思議な感触を伝えた。メランは目を細めてひこひこと耳を動かし、眼下に広がる光景を見渡して、やっぱりもう一度感嘆の声を上げた。

「へはーーーー…………」

 迷宮第二階層、少なくとも、かつてそういう場所だった円形の空間は、今、鮮やかな極彩色に輝く広大な雲のようなものの上に丸ごと乗っかって、銀灰色の次元海を悠々と移動していた。
 目を凝らせばはるかな雲の突端に、龍虎と呼ばれた極彩色の魔神と、ニンジャ・マスターと呼ばれた黒ずくめの小柄な魔神が並んで立っているのがかろうじて見える。メランとメリンは階層空間の壁面近く、壁にこびりつくように残っていた次幻樹の根のくぼみに収まっており、さながら途方もなく巨大な船の舷窓にいる気分を味わっていた。
 目を転じれば、右側には墓石都市とおぼしき林立する石塔の森が、金色に輝く巨大な狐の背に乗って海原を駆けている。ひときわ高い巨岩のてっぺんにセルージャが腰掛けているはずだったが、距離が遠すぎてとても判別はできない。そのさらに向こうには極東風の小さな社を擁する第一階層が、神官服と着流しの二柱の痩神に担がれてえいほえいほと威勢よく併走しているのが見え隠れする。
 左にはラネーシア神殿……今や太原神の洗礼を受け、ヴァイアランス神殿と名を変えた。どちらにせよ今は廃墟であることに変わりはないのだが……が、身震いするほど圧倒的に膨大な肉の山脈の狭間に埋もれるようになって轟々たる響きとともに驀進している。なにやらテントのようなものが見えるのはザラ達の使う天幕らしく、ことが終わったらまたあの聖戦とかいう騒々しい喧嘩を再開する様子であった。
 上方には……実はそちらはあまり見たくなかったのだが……神殿を支える大肉神に匹敵するかと思われるほどの、これまた莫大なぬめぬめした肉の塊が浮遊している。その濡れた輝きは確かに海産物のもので、軟らかく長大な八本の脚で沸きたつ炎の塊である地獄を楽々と抱えて運んでいた。イェンの妹だという、あまり似ていないチャイニーズ・デーモンが、脚の一本の周囲をちょこまか飛び回っているのが蚊のように見えた。



 迷宮は今や、階層ごとにばらばらに分解され、その各々を魔神達によって運搬され、再建の地へと次元海を突き進んでいるのだった。それぞれが小さな魔界にも匹敵する五つの積層空間が、整然と並んで銀虹色の次元海を航行する様は、天帝の無敵艦隊といえどもこれほどではあるまいと思えるほどの威容であった。

「宇宙一贅沢な引っ越しだぜ……」
《あまり阿呆のような顔をするものじゃない、セルージャ。諸神方に笑われるぞ》

 突然耳元で念話が響き、セルージャはぎょっとして振り向いた。少し離れた後方にダンジョン・マスターの結界球が、セルージャ達を乗せた金色の狐と速度を合わせて浮遊している。普段は必要な場合以外ぴくりとも動かない彼の口元が、今はかすかにほころんでさえいる。とっておきのいたずらを成功させた子供のようだと、セルージャは思った。

「実際阿呆になったような気分だよ、御主人。もう何が起きても驚かねえと思ってたけど、まだこんな大仕掛けを隠してやがったとはな」
《別に、隠していたわけではない。諸神方のご厚意に甘えさせてもらっただけさ》
《《何がご厚意だ。最初から俺達を人足に使うつもりだったろう》》

 唐突に割り込んできたのは、数キロも向こうで第一階層を担いで走っている剣帝の声だ。ダンジョンマスターは黙って、中指の先でバイザーをついと直した。普通の人間なら苦笑に相当する仕草だ。まったく、こんな剽軽な御主人は百年に一度だって見られるもんじゃない。セルージャもつられて笑い、ついで先ほどから気になっていたことを訊いてみた。

「ところで、俺達どこへ向かってるんだ? まさかこのまま宿無しになるってんじゃないだろうな」
《諸神方にずっと乗せてもらってか? 冗談ではない。落ち着く先はもう決めてある。歓迎を受けると思うぞ。特に、お前はな》
「?」

 訝しげな顔のセルージャをそのままに、ダンジョンマスターは行く手遙かに待っているはずのその場所と、本当にとっておきの仕掛けのことを思い、愉快げにバイザーの光点を左右させた。今度こそ、あの試みは成功しているだろうか……



***



 レイシャは待っていた。
 否、待ち焦がれていた、と言ってもいい。

“その場所に到達し、迷宮を迎える準備を終えたら。その時より、私がその地を踏むまで、一時魔メイドの任を解く。お前のしたいことをするがいい”

 脱出の際、最後にぽつりと言い渡された、命令ともつかない言葉。
 何年か前にも、レイシャは同じ言葉を受けたことがあった。〈お前のしたいことをするがいい〉……そもそも魔メイドの職務にとって、何かしたいとか欲しいなどという感情はまったく邪魔なものでしかない。完璧な魔メイドであったその時のレイシャはその原則に完璧に従った結果、生命活動と霊的活動を完全に停止して虚無に還りかけた。その後彼女の主人がどれだけ大慌てで蘇生処置を施したか、無論彼女は知らない。
 今でもレイシャは、完璧な魔メイドである。少なくともそうあるべきと心得、常にそうなるべく努めている。

 レイシャは待ち焦がれていた。



***



「わ………あ……!」

 感嘆の声を最初に上げたのは、案に相違してメランではなく、ルキナだった。
 桜色、という色はもちろん知ってはいた。ミアのほっぺたの色、シャルの乳首の色、トーニャの秘肉の色だ。だがその言葉がそもそもは何の色を指していう言葉なのかルキナは知らなかったし、ましてその言葉の元となった当の事物など見たこともなかった。
 ハート形を細くしたような、小さく淡くやわらかな薄片。最初はたったひとひら、ふとルキナの鼻の頭に止まった。何、と思うまもなく、二つ、三つ、と宙を舞うそれは数を増し、やがて降り注ぐ小雨となり、各階層を包む霞となり、さらに魔神達を、すべてを飲み込む吹雪となって一面を覆いつくした。激しく、しかし音もなく、息がつまるほど濃密で、しかも淡い、その桜色の壁をつき抜けてその向こうにあるものを目にしたとき、ルキナは思わず声を上げていた。

「桜だ……!」

 と言ったのはルキナではなく、地球出身のメイド、サワナである。まさしくそれはサワナの故国の国花、桜以外の何物でもなかった。ただし、サワナの知っている桜という概念などをはるかに圧倒する巨大さと、美しさと、数とでそれは彼らの目の前に現れたのだ。
 そそり立つ雄大な幹は、もっとも細いものでも一周するのにルキナの脚で半日はかかるだろう。サワナなどではたくましく波打つ根の一本を乗り越えるだけでそれくらいかかるかもしれない。太いものになると右縁と左縁を同時に視界に収めることができない。高さに至っては距離感が麻痺してしまって想像すらつかなかった。
 黒々と輝く幹は半ばほどから枝分かれし、数百の幹枝、数万の大枝、数億の小枝となって全天を覆う網となる。そしてその枝々をくまなく埋め尽くして、五枚一組につどったあの薄桃色の小さな花びらが、空間のすべてを淡いほの明かりに染めていた。
 そしてそういう大樹が幾百、幾千、幾万と集っているのだ。諸魔神とヴァイアランスの神力を浴びたことで一時的に引き上げられた霊格が見せる、それは凄まじいまでの幻視であった。
 圧倒されて声も出なくなった守護者や従者達の心をほぐすように、ダンジョンマスターが一人一人に念話で語りかけた。

「あの一本一本が、一つの魔界だ。このあたりではあのような姿に見える。もっと近づけば、お前達の知っているふつうの世界の姿に見えてくるよ。そして我々が目指しているのは……」

 ダンジョンマスターが指したのは、目につく中で最も大きい樹というわけではなかったが、しかし最も淫靡で繊細な色合いをした大樹だった。諸神に抱えられた階層がまっすぐそちらに向かうにつれ、桜の木のイメージは分解し、代わって魔界の雲に覆われた、天を突き刺すような大山が見えてきた。視力のいい者は、その頂上付近に建つ壮麗な城郭をも見て取ることができたろう。また周囲を見回せば、同じような巨嶽が左右に一つずつ、後ろにも一つそびえ立ち、四方を囲んで一つの魔界を成していることがわかったはずだが、眼前の光景に圧倒されっぱなしの迷宮の住人達の中に、この時点で周囲を見渡すほどの余裕のある者は一人もいなかった。

「ヘレイトスと云う世界だ。四つの魔山に守られている。その内の一つ、北の魔山ヘキサデクス……あそこが、我々の新しい迷宮となる」
「ボク達、お城に住むの?」ルキナが訊くと、ダンジョンマスターは微笑みと取れないこともない表情を作って首を振った。
「あの城にはもう主がいるよ。魔山の内部が亜空洞になっている。そこに迷宮を再建する」
「じゃ、元通りになるんですね!? 何もかも!」

 メランが、弾むような声を上げた。ダンジョンマスターはゆっくりと首を振り、今度こそ本当に、微笑んで、言った。

「それ以上、さ」



***



「見えてきました……」

 その小柄な、しかし全身からほのかな香気のような貴さを立ちのぼらせている少女は、星絹の手袋をはめた手で星空の彼方を指さした。

 レイシャにはまだ何も見えなかったが、しばらく目を凝らしていると、桜色の星々の向こうに、五つのおぼろな影がうっすらと浮かんできた。距離を目測し、それがとてつもない大きさを持つものであると確認すると、レイシャは小さく頷いてみせた。

「どうぞ、お出迎えのご用意をなさって下さい」

 少女……キャッスル・ヴィセルガイストを治める王女がわずかに手を動かすと、その傍らに控えていた侍従達がサッと姿を消した。と思うまもなく、足下から重く轟く振動が伝わってくる。
 魔山の裾野が、開いているのだ。迷宮を迎え入れるために。
 それはきっと途方もなく壮大な光景に違いなかったが、身を乗り出してそれを見たい、と思うほどの好奇心はレイシャにはなかった。出迎えの準備といっても、必要なことはとうに終えているし、何より自分は今後宮回廊の守護者ではない。階層空間自体はともかく、その主と迷宮のおもだった面々はいったんここへ……キャッスル・ヴィセルガイストの前庭へ降り立つはずだ。そう判断したレイシャは、この場を動かずに待つことにした。
 あと数分で、レイシャの受けた命令は失効を迎え、彼女は元の謹厳無比な魔メイドに戻るだろう。それ自体は少しも悲しむべきことではなく、むしろ安堵に近い気持ちでレイシャはその時を待っていた。だが、その前に、命令に従うならばどうしても実行しなければならない、ある行動があった。


***


『やあ、魔人殿。無事で何より』
「軍神殿、鉄神殿! この度は御難儀を戴き……」
『他ならぬ魔人殿の頼み、この程度が難儀の内に入るものかよ。それよりも早く“積み卸し”を済ませた方がいいのではないかな』

 メランの比喩のセンスによれば、それは、空っぽのタンスに引き出しを順々に詰めていく作業に似ていた。ただし、自分がミジンコほどの大きさになって、天井付近からそれを眺めているとしての話だが。
 魔山の標高の半分ほどもあるかというとんでもなく巨大な鉄のロボット……おそらく魔神の一柱だろうとは思ったが、メランはその名を知らなかった……と、それと同じくらいの大きさの人型をした肉塊に変形した肉神アーセカが、真っ二つに開いた魔山ヘキサデクスの裾野の両脇にそびえ立ち(姿勢としてはどちらかというと腰をかがめるようにして立っていたのだが、スケールからいって「そびえ立つ」以外の表現は使いようがなかった)、迷宮の五つの階層空間を他の魔神達から受け取っては、開いた山腹の内部へ順番に収めている。二柱の魔神が一押し、押すごとに空間がきしみ、大地が揺れ、次元の破片がぱらぱらと降る。山の内部に黒々と開いた亜空の洞がゆっくりと満たされていく。確かにそれは、比喩でも使わなければ把握できないほど巨大なスケールの光景であり、いやと言うほど桁外れのものをさんざん見てきたこの一日の閉幕にふさわしい一大スペクタクルであった。

「最後の最後まで桁違いだな。麻痺しそうだぜ」
「そーだねー。これから神殿とか戻ったらすっごい狭く感じそう」

 などと暢気な会話を交わせるのは、神経がだいぶ常態に戻ってきた証拠である。メラン達は今、ダンジョンマスターの作った結界球に乗り、ヘキサデクスの頂上付近にある壮麗な城へ向かって下降しつつあるところだった。消耗の激しい者は階層空間に残り、一緒に山腹内部へしまわれていったため、結界球の内部はメラン達守護者と数名の側近、混沌戦士だけとなっている。その城にレイシャが待っていると聞かされてから、セルージャの態度が目に見えてそわそわし出したのがメランにはおかしくてならない。

〈こんばんにゃー。どちらさんも、ご無事で何よりでんなぁ〉

 突然、腰の抜けるような念話が入り、同時に結界球の前方に矩形の窓がぱっと現れ、猫耳を生やした巫女装束の少女がおどけた仕草で会釈をした。

「……巫女子!? てめっ、どの面下げて今頃のこのこと!」
〈堪忍ですにゃ。ウチかて命は惜しいですわ〉
「巫女子」なおもいきり立つセルージャを圧して、ダンジョンマスターが窓に語りかけた。「よく、戻ってきてくれた。ご苦労だったな」
〈え? えや、その、そない……にゃへへ〉

 気恥ずかしげに照れ笑いをする巫女子を見れば、彼女がただ逃げ出したわけではないらしいということくらいはセルージャの頭でも想像はできた。怒るに怒れずむっつりと黙って下を見ると、めまいがするほど下方にある城郭の、前庭のような部分の隅っこに、見慣れた色がちらりと動いた。ように見えた。
 たちまち怒りなどきれいに忘れ、セルージャは無理矢理結界球をこじ開けると、立ち上がるのももどかしげに飛び降りていいた。くすくすと笑いながら、メラン達はそれを見送る。
 宇宙一壮大な荷下ろしを背景に、結界球はゆっくりと下降していく。


「……ギラにはそのまま外で待っているように言いなさい。剣はあとで届けさせる……うん、お前もこちらへ合流するといい」ダンジョンマスターが念話を終え、窓を閉じた。

「さて、細々したことは明日からでいいだろう。挨拶を済ませたらお前達も下へ行って、皆を呼んで来なさい。この地の姫が歓迎の宴を催して下さるそうだ」
「わいっ♪」ルキナが喜ぶ。
「それと……ティー=トゥー=メイ。君に地獄の守護者代理を任せる。姉上が戻ってくるまで、よろしく頼む」
「あいあーい! 任せておくアル」
「でも、いんですか? セルージャに教えてあげないで」

 メランが訊ねた。ダンジョンマスターは少し思案顔になった後、だんだん近づく地上を見下ろした。バイザーの赤い星が、少し愉快げに揺れた。

「……ま、あとで教えてやればいいさ。無粋な真似はやめておこう」



 あの人が勢いよく飛び降りてきた。自分が同じことをすれば間違いなく骨くらい折りそうな高さからだが、あの人にとってはどうということはないのだろう。ともあれ、そんなことはどうでもいい。レイシャは今こそ、命令の最後の行動を……すなわち、一番最後に残っていた「したいこと」を、実行に移した。



 あの人の胸に飛び込んで、「おかえりなさい」を言うのだ。



(パルボIQ戦記・終)