巫女子の章・3
 (Rebis)

 その部屋は、いつもと変わらず静かだった。
 壁面を埋め尽くす書棚にはガラス管やフラスコが張りつき、複雑な幾何学模様を描きながら、天井の巨大な培養槽へと繋がっている。培養槽の中で泳ぐ美しい少女達が、何が可笑しいのか巫女子を見て「うふふ」と微笑んだ。
 鼻孔をくすぐる緑色の煙は、異界の香料か実験の排気か。
 チリチリとかすかな音を立てるのは、不思議なオルゴールか霊鳥の嘴か。

「塔主はん? おるんやろ?」

 巫女子はおそるおそる実験室の床を踏んだ。大きな声を出せば書物の山が崩れてしまいそうで、いつもの大声も出せない。
 薄闇の中で、紅い光点がピカリ。それは巫女子の声に応えるように、ゆっくりと明滅した。

「……巫女子か。何の用だい?」
 落ち着いたその声は、実験室の最奥にある机の前から発せられた。
「やっぱりいはりましたか。失礼します」
 巫女子は着物の裾を抑えて慎重に歩むと、紅い光の側に立った。
 光が漏れる元は、その人物の目を覆う紅いバイザー。黒いローブを着たその容貌は、少年とも老人ともつかない。
 この人物こそ、次元の最上にそびえ立つこの塔の主であった。
 やっぱりあの方にそっくりや……いや、まったく同じや。巫女子は小さく息を呑む。
 塔主の周りには大小いくつもの机が並び、その一つ、巨大なチェス板のようなモノが置かれた場所で巫女子の目が止まった。巨大なサルのような七つの彫像。その周りに配置された、ほんの小さな金属のミニチュア達。そのミニチュアが見慣れた守護者の像であることに気付いて、巫女子は驚愕した。
「……気になるかね?」
 同じ場所に紅い光を向け、塔主は静かに言う。
「あ、当たり前ですがな! ここまで知ってはるんなら、何でなんにも手ェ打たへんのです!? あの方は、あんさんの分身……いや、あんさん自身でっしゃろが!」
 巫女子がバン、と机を叩くと、塔主は緩慢な動作で巫女子を見上げた。
「アレはもう僕じゃない。パルボIQが消滅させてくれるなら、丁度いい」
 塔主は椅子の背もたれに頭を預けると、ふうと息を吐き出した。
「そもそも、お互いに消すことができないから、離れることを選んだんだ。あるいは、ようやく運命がどちらかの生存を選んだのかも知れないな」
 塔主は手元にいくつかの水晶球を呼び寄せると、その中に映し出される光景に数度呪文をかけ、再び水晶を舞い上がらせた。
「そう言えば、何の用か……という質問に、まだ答えをもらっていない」
 それまでぷるぷると震えていた巫女子は、猫の手を思いっきり振り上げると、塔主の顔に猫パンチを繰り出した。
 ぼんっ、と小気味のいい音を立てて、塔主の顔が実験室の隅にまで吹き飛ぶ。首だけ本棚の前に転がった塔主は、小さく溜め息をついた。
「アホ! ヘタレ! もうええわ! 用は今のでしまいや!」
 巫女子は勢いよくきびすを返すと、ズンズンと足音も大きく実験室の出口へ向かった。
「待ちなさい。ヴァイアランスを呼びたいんだろう?」
 背後からの声に、巫女子の耳がピクリと動いた。
「死ぬぞ。それでも呼ぶのか?」
 塔主の首はフラフラと飛ぶと、本来あるべき胴体へ戻った。
「分かっとるんならさっさと切り出さんか、だあほっ!」
 巫女子は険悪な表情のまま、塔主の椅子の前まで戻った。
「知っていたわけではないよ。ただ、君があの迷宮と縁のある魔神に、祈願の玉串を送り届けようとしていることは分かった。ならば次にすることは、淫神の中でも最強の、混沌の本質たる一柱……ヴァイアランスへの祈願だ、そう推測したんだ」
 調子を確かめるように首を回しながら、塔主は言った。
「協力してもいい」
「……さっきまではあないなコト言うとったのに、何でいきなり態度を変えるんや?」
「あいつに助けを出すつもりは、さらさらない。けれど、君が助けたがっているのは、あいつではなくあの場所の住人だろう。あいつに召喚され、あの場所で死ぬとしたら、むしろ住人達はあいつの被害者だ。あいつが被害を及ぼす者には、僕は誰であれ救いの手をさしのべる」
 塔主のひねくれた理論を聞いて、巫女子は憮然とした表情のまま頷いた。
「ほなら、手伝うて下さい。あれだけ大きな神さんを降ろすには、それなりの準備がいりますさかい」
「もう一度言うが、死ぬぞ。いや、死ぬわけではない。おそらくは巨大なヴァイアランスの神性に魂を同化され、永遠にその一部となるだろう。迷宮を救っても、もうあの場所に戻れはしない」
「………」
 うっすらとは分かっていた。だがその事実を改めて宣告されれば、巫女子の心も揺れる。
 みんなと仲良うしたくて、パルボを何とかしようとしとるんや。せやのにウチが消えてしもうたら、意味ないやんけ。
 仮にヴァイアランス様が来はらんでも、さっき玉串を送った神さん達が来てくだはるなら、パルボくらい……
「やめてもいい、と僕は思う。君が祈願した神の力だけハッピーエンドになるかどうか分からないが、少なくともパルボは止まるだろう」
「それは……誰か犠牲が出るっちゅう意味か?」
「そうだ」
 塔主が頷くと同時に、パキン、と巫女子の脇からイヤな音が響いた。
「…?」
 足下に落ちたかけらを、巫女子は拾い上げる。猫手の上に載ったその金属片は……

 イェンの角だった。

「死んだな。いや、消えたと言うべきか」
 塔主は何の感情も込めずに、上半身が四散したイェンのミニチュアを眺めていた。

「……塔主はん……ウチ、やります」
 イェンのかけらを涙と共ににぎりしめて、巫女子は呟いた。破片が肉球に刺さり、手から血が滴り落ちても、まだ力を込め続けて、叫んだ。
「ヴァイアランス様を呼ぶ準備、させて下さい!!」

「分かった」
 塔主が手を振ると……屋上へ続く階段が、轟音と共に実験室に現れた。

<巫女子の章・4へ続く>