巫女子の章 1
 (Rebis)

 迷宮が、削ぎ取られていく。
 闇の大地に張りついた巨大な金属が、這いずり蠢くたびに、迷宮は虚無の染みに侵食されていった。魔法と科学の粋を凝らして構成された不滅の階層が、瓦礫も音も残すことなく消滅していく。
「なんちゅうこっちゃ……ほんまに、あんな化けモンが出てきよるにゃんて……」
 遥か高次の霊界に避難を済ませた巫女子(みこね)は、小さな口をきりりと結んで、住み慣れた迷宮が崩壊していく様を見下ろしていた。背には大きな賽銭箱を風呂敷で担ぎ、次元を転移する術を繰り返したせいか、その息は荒い。
 巫女子の眼下で、彼女が守護すべき大社の鳥居が、金属の地平にまた一つ沈んでいった。
 視界を埋め尽くす金属の名は、パルボIQ。
 それは、あらゆる存在を抹消する世界の否定者。魔法王国の傲慢と断末魔が産み落とした、悪夢の電脳兵神。伝説の彼方に埋もれていた絶滅兵器は今復活し、両性具有者の楽園である迷宮を飲み込もうとしていた。
 かつて古文書で読んだ伝説の存在が、現実に迷宮を襲っているなどと……巫女子自身にも信じられない思いだった。
 パルボIQの兵装肢がまた一つ、触手めいた動きで迷宮に潜り込んだ。その先で巻き起こる爆炎と雷光。迷宮の守護者と住人達が、死力を尽くしてパルボIQを食い止めているのだ。
「アホや……みんなアホや! あないな怪物相手に、立ち向かうなんて……命を無駄にしとるようなもんや! 死んでもうたらどないしますのんや……」
 巫女子は風呂敷を握る指に力を込め、肩を震わせながらかぶりを振った。
 何時の間に、あの迷宮が、自分の中でこれほど大きな存在になってしまったのだろう。
 無理矢理召喚され、嫌々ながら守護者の任務についたはずだった。階層を適当に経営して、儲けてやればいいと思っていた。なのに……
 −−このまま逃げてまえ!
 自分の中でそう叫ぶ声がある。肩に背負った賽銭箱の中には、迷宮を訪れた諸神からの供物がギッシリと詰まっている。数百年は遊んで暮らせる量であろう。
 けれど、けれど。守護者達の、迷宮の住人達の面影が浮かぶ。ウチはまだ、迷宮のみんなとロクにお喋りもしとらん。このまま逃げて、みんなとお別れなんて、ゴメンや。あないな化物に、みんなが消されてまうなんて……そんなアホなこと……
 薄青い霊界の雲に滴った数粒の涙が、激しい振動に砕かれて舞う。霊界が震えているのだ。近しい次元群までも、パルボIQの攻撃圧に巻き込まれて崩壊しようとしているのだろう。
 −−こんな所におる場合やないな……
 巫女子は自らの使命を思い出し、眼鏡を直して振り返った。
「……! なんにゃ、お客さんのお出ましかいな……」
 砂城のように崩れゆく霊界の表面には、醜怪な金属の軍勢がびっしりと張りついていた。

 軍勢を構成する兵器の名は、メンバーズと言う。
 ぬらりとした金属で組み立てられた、人間型の小型兵器。それはパルボIQの先兵として放出され、蝗のごとく世界を食い荒らすのである。
 古文書にわずか記されていたその姿、その脅威……それが現実となって、巫女子の前に展開していた。
 群がる銀に切り崩され、柔らかな稜線の山々が砂に変わる。汚れた排気に飲み込まれ、たゆたう霊気が消えていく。霊界には神霊の叫びが満ちて、小さな神々が次々と別の世界へ逃げ出していた。
「風情っちゅうもんを知らんアホどもやな……うち、急いどるんや。そこどきぃ!」
 巫女子はどこからか取り出した玉串を振りかざし、メンバーズ達を一喝した。
 軍勢は一瞬立ち止まる。だが、瞳の無い千の目が巫女子をねめつけ、五百の剣が振り上げられた。
「せいっ!」
 振り降ろされた玉串から光の軌跡が走り、巫女子を囲むメンバーズ数体が吹き飛ばされた。玉串が幾度も振り払われ、巫女子の口から祝詞が上がるたびに、メンバーズ達は光に消える。
 だが、無機の軍勢は止まらない。腕を、脚を吹き飛ばされたメンバーズまでもが起き上がり、この世界に唯一立つ巫女子を消去すべく迫った。
「あかん……やっぱり数が多すぎるわ。しゃあない、アレいこか……」
 巫女子は顔の前でしっかと玉串を握り締めると、黒い睫毛で瞳を隠し、滔々と祝詞を唱え始めた。
「天魔球に神居りまするは 澱冥醒玖魔帝……」
 巫女子の黒髪がふわりと巻き上がった。風ではない。巫女子の周りで渦巻く清浄な神気が、黒ずんだ世界の中に一筋の光の柱を打ち立て、遙かな高みから何かを届けようとしていた。
「水鏡の八剣もちて 天の御倉を千斬りに斬り賜ひて 帝の宮を斬り拓き 魔帝の八重国を斬り拓き 我が澱冥醒玖命 禍祝詞を聞こしめし 天降りて依り賜へ…………エイっ!!」
 巫女子の気合いが発せられた瞬間、世界は凍り付いた。
 どんな攻撃にも歩を緩めなかったメンバーズ達が、機能を停止したかのように立ち止まっている。崩れかけた峰も、荒れ狂う風も、世界の全てが、巫女子を見つめて沈黙していた。
 巫女子の顔が、ゆっくりと上がる。
 黒髪の彼方の、丸い眼鏡の奥に。
 神の眼光が宿っていた。

 神降ろし。
 猫巫女の族の中でも天性の才能を要する、巫女にとって究極の業の一つである。
 それはまさしく、巫女が祀る神の分霊をその身に降ろす。
 ゆえに今の巫女子は巫女子ではない。
 そこには、滅砕の魔帝と呼ばれる剣神が立っていた。

 眼光が矢のように、メンバーズ達を射抜く。
《攻性動体レベル計測不可能……第35メンバーズ大隊ルーチンハ、本体ヘ二次索敵及ビ計測を要請……》
 感情の無い五百の悲鳴が、一斉にパルボIQ本体へと走った。
 愛らしい巫女子の顔つきが、今は痩身の剣鬼のものになっている。刃のように鋭く吊り上がった眉が、これ以上ないほど固く結ばれた口元が、巫女子の中に降りた神の意を伝えている。
 巫女子の草鞋が、音も無く一歩踏み出した。玉串が水晶の剣の如く閃き、巫女子の腕が一振りされる。

 斬。

 五百の金属は五千の金属片に変わって、世界中に撒き散らされた。

「ふう……さ、さすがにごっついわ……」
 いつもの眼に戻った巫女子は、息を切らせながら雲の上に膝をついた。
 久々に行なった神降ろしは、予想以上に巫女子の霊力を消耗させていた。これでは、後一回行なえるかどうか。
 しかし構うことはない。目的地は、そう遠くはないのだ。
 巫女子はよろよろと立ち上がると、風呂敷包みを担ぎ直し、さらに高次の次元めがけて転移を繰り返した。
 光量を増す雲海を踏み、何種類もの天使達の間を飛びぬけ、時には仙人達の酒をかっさらって、喉を潤しながら霊山の峰を跳び越える。
 十もの天界を越えただろうか。巫女子の眼前に、ようやく目的地のシルエットが見えた。
 無数の天界と神々を足元に見下ろし、次元群の高みにそびえ立つ、窮境の「塔」。
 巫女子が仕える魔人と袂を別った、もう一人の大魔術師が住む居塔。
 幾つもの結界と門番が巫女子の姿を認め、塔への道を開いた。それを駆け抜け、千段の階段を跳び、神と魔神の姿が刻まれた門扉の前に立つ。
 しばし息を切らしていた巫女子は、先程いただいた神酒の最後の一滴を喉に垂らすと、声の限りに叫んだ。
「ウチや……巫女子や! 塔主さん、一大事やっ、開けたってーなっ!!!」

 重々しい扉が動き始め、異界門の青白い光が、巫女子の全身を包んだ。

<巫女子の章・2へ続く>




語注

・遙か高次の霊界
 いくつもの次元に生きる超霊的生物にとっては、次元は立体的な重なりで見えるらしい。天界や神界は「高く」地獄や魔界は「低い」。さらにレベルの高い存在だと、時間を合わせた四次元的な世界で見えるそうだが、その段階だと人間の筆で表すことは難しい。

・無理矢理召喚され、嫌々ながら守護者の任務に…巫女子は守護者の中でも新参で、DMに召喚された存在である。そのため一時は独走し、勝手に迷宮階層を改造していた。

・玉串…榊の枝に神垂(かみしで:正方形の神が3つ連なった、神社でよく見かける飾り)をつけたもの。神への捧げものとする。これを捧げることにより、神に恭順の意を示し、神とのつながりを確認するのである。

・神降ろしの祝詞…読みは以下の通りである
         「てんまのくににかみおりまするは よどめいさめくのまがきみ みかがみのやつるぎもちて てんのみくらをちぎりにきりたまひて みかどのみやをきりひらき まがきみのやえくにをきりひらき わがよどめいさめくのまがきみ まがのりとをきこしめし あまくだりてよりたまへ」
          意味を要約すると、天魔の国におります魔帝よ、水晶の剣で世界を切り裂き、魔帝の国を切り開き、祝詞を唱えます私の許にいらして下さい、となる。

・滅砕の魔帝…詳細は不明だが、巫女子の奉じる神の一人。巫女子は「よどめいさめくのまがきみ」と呼んでいる。偉大な剣神のようだ。