Rebis猊下に捧げる墓石の碑文 二



 守護者セルージャのささやかな回想

 "MAN OF STEEL"




「よおレイシャ、いるか……あれ?」


 後宮奥の院、プライベート・ティールームは、混沌の加護によって絶え間なく変容し続けるこの至聖回廊の部屋々々の中にあって数少ない、座標の定まった部屋である。それというのもこの回廊の管理人・魔メイドのレイシャのお気に入りの場所の一つであるからなのだが、そこへの直通亜空間ルートをレイシャ自らが教えてくれた、というのが最近のセルージャの上機嫌のタネになっていた。以来、守護者の仕事も放り出して(今に始まったことではないが)毎日のようにこのティールームを訪れている彼女なのではあったが。
 その日、賓客用の柔らかな銀毛羊のソファは、ちんまりとした四人の先客に占領されていた。うち二人はよく知った顔だったが、あとの二人には見覚えがない。

「あ、セルージャ。いらっしゃーい」
「しゃーいー♪」
「メリンにメランじゃねえか。それと……誰だ、お前ら」

 第二階層の守護者、メリンとメランの隣に腰掛けるその二人の子供……そうとしか見えない……は共に獣耳を生やし、魔メイドの装いをしていた。兎耳でピンクの髪をした方はセルージャの一睨みでパニックに陥ったようだが、犬耳でショートカットの方は声とヒザを震わせながらもキッと見返してくる。

「わ、わ私たちはここちらのお客です。あ、ああなたこそど、どどどなたですかっ」

「何だとお?」そのソファには本来自分が座るはずだったのだ(とセルージャは勝手に思う)。予期せぬ邪魔者の出現に、そこはかとなく声にも険がまじった。

「何言ってんのルカルナ、この人も守護者だよ。ほらセルージャも、ガン飛ばすのやめなって」
「ええっ!?」

 メランがフォローを入れ、今まで気丈にぴんと立っていた犬耳少女の犬耳がとたんにぱたりと倒れたその時。

「どうなさいましたか……あら、セルージャさん?」

 実に絶妙なタイミングで、幾重にも垂らされた天幕の奥から、ティーワゴンと一緒にレイシャが姿を現した。





「申し訳ありません! 守護者のお一人とも知らず、ご無礼を申し上げましたあっ!」

 魔ホガニーのテーブルに額を叩きつけんばかりに平伏するルカルナと、最初から萎縮しっぱなしのリサリアに、セルージャは苦笑して手を振った。

「別に、そんなに畏まることねえって。……しかしお前ら、ザラのとこのメイドだったのか」

「ん。メイドの心得を勉強したいっていうから、レイシャに紹介しようと思って」とメラン。
「めらんとるかるなはねえ、なかよしなのー」こちらはメリン。

「へえ」言われてみればメランとルカルナはどこか似た所がある。手の掛かる妹分を持つとこうなるのかも知れない、とセルージャは考えて少し可笑しくなった。

「セルージャはね、ルカルナ達の神殿の隣にあるネクロポリスってとこの守護者なの。魔道看護婦で、すっごい強い武闘家なんだよ」

 メランが今度はルカルナ達に向かい、かいがいしく説明を始める。すっかりホストのお株を奪われたレイシャは、黙ってセルージャの隣で紅茶を飲んでいる。これはこれで悪くない、などと横を見つつセルージャが考えていると。
 「すっごい強い武闘家」という所で、ルカルナの耳が勢いよく跳ね上がった。

「セルージャ様、武闘家でいらっしゃるんですかっ!」

「あ、ああ。本業は看護婦だけどな」多少面食らいながらも、セルージャが答える。

「いいなあ……すっごい強いんですかあ……」目の輝きが尋常ではない。

 無理もない。身近にもザイナやジェナなど強者はいるが、ここにいるセルージャは敬愛するザラ様と同格の守護者で、しかも武闘家なのだ。ザラとは別の意味で、究極の憧れと言っていい存在だった。

「あの、一つ伺っていいでしょうかっ」
「いいけど……」珍しいことに、セルージャが気圧されている。ファンに囲まれて閉口しているアイドルというのはこんな感じなのだろうか、と何となくメランは思った。



「強く……強くなるには、どうしたらいいんでしょうか!」



 真摯な問いではあった。しかし、あまりに掴みどころが無さすぎる。少しの間の後、セルージャが困ったように頭をかいた。

「どうしたら、ってもなあ……どうして強くなりたいんだ?」

「はい、あの、私、武術の本とか読むのが好きなんです。それで、形とか技とか色々見て、覚えて、結構強いかなーとか自分では思ってたんですけど、ここへ来て、本物の戦士様に会ったりすると、私なんか本当は全然弱っちくて、もうお話にならないくらい……」

 それはそうだろうな、とセルージャは思う。武闘家である彼女の目から見て、ルカルナの体つきや立ち居振る舞いはどう見ても武術を修めた者のそれではない。アマチュアにしても下の方だろう。ザラの部下達は何度か見かけたことがあるが、セルージャでさえ一度手合わせしてみたいと思うようなのが何人かいた。確かにあれと比べては話にも何にもなるまい。
 ルカルナは続ける。

「……今まで勘違いしてたのがすっごく恥ずかしくて、悔しくて、それで、特訓したいって思ったんです。本で読むだけじゃなくて、本当に強くなりたいって。でも、ザイナ達に知られちゃったら恥ずかしいし、できればザラ様にも秘密で……あ、稽古をつけてくれなんておそれ多いこと言ってるんじゃないんです。時々見て下さって、それで、少しだけアドバイスを下さったら……」

 セルージャは何も言わず、品定めするようにルカルナを見ていた。視線に圧されて、ルカルナの言葉尻が頼りなげに消える。しばらくして、やっとセルージャは口を開いた。

「本を読むのが好きだって言ったな。メガネかけてるのもそのせいか?」

「え?あ、はい、その、武術の本とか、他にも、そのその、色々……読みます。好きです。で、でも本ばっか読んでるわけじゃないです!ちゃんと運動したりとか、体は鍛えて、その」

「そうか。オレはものを読むのが苦手でな、ネクロポリスの守護者に選ばれたのも、必要以上の知識を欲しがらないからなんだそうだ」苦笑して、「お前さ、折角本が好きなら、そっちで頑張ってみる気はないのかよ?」

 やんわりと断っているのだ。と、当然のごとくルカルナは受け止めた。せわしなく動いていた犬耳が、力無く垂れ下がった。

「……見込みないですか、私……」

 だが、セルージャはゆっくりと首を振った。「そりゃあ、やってみなけりゃ分からねえさ。だけどな、見込みがあるかないか分からない道より前に、もう少し得意な道で試してみる気はないのかって聞いてるんだ」

「でも私、強くなりたいんです! 本を読むだけじゃ武術は……」
「身に付かないな、確かに」
「そ、それじゃ」
「それでも、強くはなれる」セルージャは身を乗り出して、ルカルナの瞳を正面から見据えた。吸い込まれそうに澄んだ、碧色の瞳が目の前に迫り、ルカルナは息を呑んだ。「本を読むのも、飯を作るのも、みんなそれぞれの強さへ繋がってる。腕っ節が強いだけが、強さじゃねえよ」

「えええええっ!!?」

 素っ頓狂な声はルカルナではなく、メランが上げたものだった。目をまん丸に見開き、口は「え」の形で固まり、両手は思い切り万歳をしている。上空ではティーカップが盛大に宙を舞っていた。

「……何だ、その反応は」

「いやあの、あんまり予想外の言葉を聞いたから……」

「どういう意味だよ」

「だって、セルージャって、武道ひとすじー!って感じじゃない。こう、強いってのは体鍛えてなんぼだー、みたいに考えてるんだと思ってた」

「お前…オレをよっぽど馬鹿だと思ってんな」憮然とするセルージャ。

「そういうわけじゃないけど……」

 素晴らしいダッシュで空飛ぶティーカップを受け止めたレイシャが、追い打ちをかけるようにソファの後ろから頭を出して、

「失礼ですが私も、少し意外に感じました」

「お前までー……」

 がくーっ、としおれるセルージャ。状況に取り残されておろおろと周囲を見回すルカルナの肩を、ぽんぽんと宥めるようにメリンが叩いた。






 セルージャ=ガレリア=ストラストヴァロスが、天来の武道家でありながら魔導看護婦という、およそ武道とはほど遠いキャリアを選んだのには、大抵の人が自分のキャリアを選ぶ時そうであるように、いくつもの理由がある。

 例えば、死と静寂が好きだったから。
 例えば、生と躍動が好きだったから。
 例えば、何度壊しても自前で復活するアンデッドなら修業相手に丁度いいから。

 例えば。
 もしかしたらその中の一つくらいは、これから語られる物語と、何か関係があるかも知れない。

 それはかの魔人が、かの迷宮を今のように形作るより以前の、ささやかな物語。
 それは人の身には往古でも、魔族にとっては瞬き程度の、ついこの間でしかない時代の物語。
 それは、かの迷宮では決して語ることを許されない物語。






「チッ……本格的に迷っちまったかな、こりゃ……」

 まとわりつくむさ苦しい疫虫どもを片手で潰し払いながら、その武闘家は唸るような呟きを上げた。艶やかな褐色の肌はこの密林によく似合っているが、本人はそんなことを少しも喜んではいないようだ。

「クソッ! ギラの誘いになんか乗るんじゃなかったぜ。何が帝国だ、ジャングルばっかりじゃねえか」


 オールド・ワールドと呼ばれる世界がある。
 太古より南北を混沌の大海に囲まれ、一日も絶えることなくその侵略に晒され続けてきたこの世界は、人間と、そして混沌の双方を鍛え上げるのに充分な環境を擁していた。
 およそ時に応じた変化ということに関しては、この世で混沌に立ち勝る事象はない。従ってこの淘汰の環境は人間よりも混沌の方にずっと強く作用し、この地は生え抜きの混沌の戦士を生む世界として近隣の次元界では名高かった。
 そういう次第で、セルージャ=ガレリア=ストラストヴァロスはオールド・ワールド出身のある友人の勧めを受けて、観光気分でこの世界を訪れてみた。
 のだが。

「あーーもう!! どこまで行ったら終わりやがるんだこのジャングルはよッ!?」

 途中で見事に道に迷い、どこだか分からない密林の中をかれこれ数時間あてどもなく歩き回っているのだった。
 無論、本当の意味で迷子になっているわけではない。武闘家であると同時に上位魔族である彼女がその気になれば、こんなジャングルなど一瞬で飛び出し、遥かな時空の高みから大陸すべてを一望にすることもできる。しかしそれは例えるならば負けそうになったゲーム盤をひっくり返して形勢を逆転するようなもので、根っからの負けず嫌いである彼女は命に関わってでもこない限りそんな真似をする気にはなれなかった。

「畜生、塒(ねぐら)に帰ったら子分共連れて来て、こんな森一坪残らず伐採してやる…………ん?」

 物騒な方向へ思考が傾きかけたちょうどその時、セルージャの視覚が樹々の彼方に小さな違和感を捉えた。圧倒的な密度で広がるジャングルの緑色の中にぽつんと浮かぶ、土色の小さな塊……

「小屋だ」

 それはまさしく、丸太と土で設えられた小屋だった。ひどく貧相なたたずまいではあるが、煙出しから細い筋が立ち上っているところを見ると、人が暮らしているのだろう。
 何時間もシダだのヒルだのと格闘した後で、会話の通じる相手を見つければ魔族だってホッとするものだ。女なら、道を訊いた後も生かしておいてやろう。可愛い娘なら抱いてやったっていい。男なら? それはもちろん殺す。当面の目標を見つけ、疲れ切った足に活力が蘇った。

 近づいてみるとその小屋は、遠目にも増してみすぼらしかった。窓は破れ、屋根は抜け、壁は隙間だらけで、全体が斜めに傾いでいる。立地条件も考えれば、こんな荒家に住むのはよほど選択の余地のない人間だろう。世俗に疎いセルージャにもそれくらいは察せられた。ドアには一応ノブが付いていたが、掴んだだけで外れないという保証はない。大事をとってセルージャは蹴り開けることにした。
 開けた途端、凄まじい腐臭が吹きつけた。

「!!?」

 鼻よりもまず目がおかしくなりそうな猛烈な死の臭い。小屋の床一面を埋め尽くし、所狭しと並んでいる黒く長いものはすべて、人間の死体だった。厳密に言えばその中のいくつかは、死体とさえ呼べないような形容を絶する液汁の塊だ。


「誰だ?」


 暗がりになった奥から、低くしわがれた声が漂ってきた。
 室内へ一歩、歩を進めると、垂れ込めた死臭がむあり、と動いて割れた。薄闇の中、灰色のローブをひっかけた箒のような物体が椅子に立てかけられている。
 違った。箒ではない、人間が椅子に腰掛けているのだ。

「……混沌か」人間が大儀そうに身じろぎした。「ナーグルではないようだな」

 箒と思ったのも不思議はない。薄暗がりの中でも分かるひどい風体だ。手足は枯枝のように細く、目はごっそりと落ちくぼみ、伸び放題の蓬髪には白いふけが一面にこびりついて固まっている。死人に間違えなかったのは、単に死体よりもっと箒に似ていたからだ。
 だがそれでも、男は最初に聞いた声から想像されるより、随分と若いようだった。おそらく、まだ三十になるかならぬかというところだろう。

「オレはナーグルなんぞじゃねえ。貴様、魔術師か?」

 ナーグルとはこの世界を蝕む大いなる混沌の力の一つ、腐敗をこととする神である。「ぐちゃぐちゃどろどろしてて好きじゃねえぜ、ムフー」と、簡潔窮まる説明を件の友人から聞いたことがあった。混沌の神の名を平然と口にし、なおかつ人里離れたジャングルの中で死体と共に住んでいる男といったら、まずは外道に堕ちた魔術師というのが順当な線だ。質問された男は、落ちくぼんだ瞳を興味深げにきろりと回した。

「最近の魔物は殺す相手の素性を知りたがるのか。文明的になったものだ」
「質問に答えろッ!」いらいらとセルージャが凄む。
「魔術を学んだことはあるが、正式な魔術師ではない。私は医者だ」
「医者だと?」

 不快げに太い眉根が寄った。医者学者の類はセルージャの最も嫌う人種である。頭ばかりパンパンに膨らませ、身体と心はカラッポ。世界を肩に背負っているような顔をしながら、いつでも安全な象牙の塔で理屈をこね回してばかりいる近視眼の臆病者共。
 しかし、この男はそういったイメージとはあまりにかけ離れていた。この酸鼻を極める荒家からして既に象牙の塔とはほど遠いし、何より同族でさえ怯ませるセルージャの眼光をまともに受けて、こいつはなお平然と椅子に腰掛けている。

「名乗っても大抵信じてもらえんがね」男は面白くもなさそうに言った。「ところで、君は私と語らいに来たのかな?」
「せっつかなくたってすぐ殺してやる。その前にもう一つ教えろ。…ここは一体エンパイアのどこいら辺なんだ?」

 男はきょとんとした顔をして、しばらく黙っていた。

 やがて、その肩が小刻みに震えだしたかと思うと。
 突然、男は爆発的に笑い出した。細い体が折れて吹き飛びはしないかと、心配になるほどの大笑いだった。

「ハ、ハ、ハ! こいつは傑作だ! エンパイアだって? そうさな、君達の足ならどうか知らないが、人間ならここから北へ三月ほど歩けばエンパイアだよ。最果て山脈を東に見ていけば、道に迷うこともないはずさ。
 ハッハ! バッドランドのど真ん中で、魔物が人間にエンパイアの場所を訊いている!」

 男はなおも体を折り曲げ、笑いの発作を必死に押さえている。言葉の意味が徐々に頭へ浸透するにつれ、どうにもやり場のない怒りがセルージャの心中にこみ上げてきた。

「笑ってんじゃねェッ!!」力任せに足下の物体の一つを蹴り飛ばす。

「!」

 ビシャッというような音と共に、そこら中へ不潔な汁が飛び散った。もう一つ、今度はあの男の顔面にぶち当ててやろうと脚を上げると、



「触るなァッ!!!!」



 凄まじい気迫を込めた裂帛の声が、剣のようにセルージャの動きを縫い止めた。

 その声を発したのが、あの枯木のような男だと、納得するまでにしばらくの時間がかかった。男はゆっくりと立ち上がり、脚を引きずりつつ、セルージャの足下の蹴り砕かれた死体に屈み込んだ。躊躇いもせず腐汁の中へ手を突っ込み、目鼻も分からぬ物体を子細に検分する。

「……一つ、駄目になった」

「おい」セルージャはうずくまる男の胸ぐらを掴み上げた。

 ……軽い。こんな貧弱な男が、今の凄まじい気合を発したというのか。こんな人間ごときに、上位魔族のオレが、たとえ一瞬でも、怯まされただと? 怒りにまかせてねじり上げると、血色の悪いやせこけた顔が苦しそうにゆがんだ。

「手前……人間の分際で魔族に命令するたあいい度胸だな。オレが誰だか分かって言ってんのか」

「君が誰だろうと問題ではない。貴重なサンプルに触れるなと言ってるんだ」

 男の体は本当に枯木でできているのではないかと思えるほど、異常に細く軽かった。セルージャの指一本、いや爪の先ででも、この男を粉々に砕くことができるだろう。だが、男の瞳に恐怖は無かった。それどころか、両の瞳に炯々と光を宿し、真っ向からセルージャを睨み返している。このまま首をへし折るのは呼吸をするより簡単だ。だが。

「っ……」

 セルージャは乱暴に手を振り払った。壁に叩きつけられ、男が咳き込む。細く、せわしない息だ。肺を病んでいるのだろう。

「……おい」壁を支えにして立ち上がった男へ、セルージャは再び声をかけた。
「今度は何だ」
「お前、医者だと言ったな。こんな所で何をやってるんだ」
「まともな質問だな……医療研究だよ」
「ジャングルの中で死人に囲まれて、何を研究するってんだ」
「ここへ来た時は皆生きていたさ。君の後ろにあるそれなんかは、先週死んだばかりだ」

 言われて振り向くと、確かに背後に横たわっているその死体は比較的原形をとどめていた。体格のいい男の死体だ。暗緑色のタールのようになった皮膚から立ち上る臭気の中に、セルージャは覚えのある瘴気を嗅ぎつけた。

「混沌の力か」
「分かるのか、流石だな」言いながら男は、倒れ込むように椅子に腰掛けた。ほんの数歩の距離を移動するのに、体力を使い果たしたようだ。腑抜けめ、と改めてセルージャは思った。先ほどの気迫は、やはり何かのまぐれか。

「全身が緑色に腐ることから緑腐病という。ここ五十年、エンパイアで最もポピュラーなナーグルの災だ」

「……研究ってのは、こいつのことか」男は黙って頷く。

「死体に少しでも触れば間違いなく感染し、感染したら間違いなく死亡する。君が人間だったらもう手遅れだな」
「人間ごときと魔族を一緒にするんじゃねえ。……お前はどうして平気なんだよ?」
「平気なわけがないだろう。あと二ヶ月ほどの命だ」

 風邪を引いているんだ、とでも言うようにごく無造作に、男は言った。開いたままの戸口から湿った風が吹き込み、男のローブの裾がはためいた。棒のような足に、二つ、三つ、と散在する、緑色の斑点をセルージャは見た。

「……お前、気狂いか?」
「知らんよ」
「……」

 セルージャは忌々しげに歯を噛み鳴らし、男に背を向けて歩き出した。戸口のところに横たわる死体を鼻息一つで消し飛ばし、男が何か言うより早く空間ごと消えた。


 人間は死を恐れ、生にしがみつく惰弱な生き物だ。セルージャはそう確信していたし、実際にその確信は何度も裏付けられていた。そして、もしその惰弱さからわずかなりとも逃れられる道があるとすれば、それは武の道だけだ。魔族と人間とを問わず、本当にホネのあるのは武道を修めた奴だけだ、というのが、武闘家としてのセルージャの信条だった。
 だから。死のまっただ中にいて平然としているあの医者は、気狂いか、さもなくば必死になって虚勢を張っているに過ぎない。
 気狂いなら殺す値打ちもない。だが虚勢なら、しばらく待てば化けの皮もはがれてくるだろう。無様な本性を晒し、己の愚かさを噛みしめさせてから、ゆっくり殺してやろう。亜空間を一直線に迷宮へと飛び戻りながら、セルージャは残忍な喜びを覚えていた。






 結論から言うと、セルージャの思惑は外れた。

「また来たのか。エンパイアには行けたのか?」

 二週間後、そろそろ腐斑が広がって来た頃かと見計らって、再び小屋を訪れたセルージャを迎えたのは、最初の時と変わらぬしわがれた、しかし平然とした男の声だった。

「……緑腐病はどうなってるんだ」思わず、そんな質問が口をついて出た。

「見たいかね。そら」男がローブの裾をからげると、緑色の斑点はこの前の三倍ほどに膨れ上がっていた。もう少しで、足の皮膚全部が斑点に覆われるだろう。

「痛かねえのか?」悔し紛れに訊いてみた。

「見舞客みたいなことを言うな」男は苦笑して、「そうだな、痛いというよりは痺れてくる感じだな。神経も一緒に腐ってきてるんだろう。まだ何とか歩けるから、骨への侵食は遅いようだ」

 言いながら、男は手にした蝋の板に鉄筆で何やら書き留めている。それが何なのか、セルージャは少し考えて、思い当たった。

「お前……自分も実験台にしてるのか!?」

「当たり前だろう。これ以上望めないほどのサンプルだ」蝋板から顔も上げずに男は答えた。

「……何考えてんだ、お前。バカか?命を懸けてまで名誉が欲しいのか」

「名誉? バカバカしい」男はフンと鼻を鳴らした。
「人間お得意の博愛精神てやつか」
「なおのことバカバカしい」
「じゃあ何なんだ!」
「説明してもいいが、君には多分理解できん。強く逞しく、望めば千年でも生きられる混沌の魔族様にはな」

 一瞬、セルージャの拳に力がこもった。男は意に介さず記録を続けている。
 握られた拳はゆっくりと、時間をかけてほどかれた。

「……また来るぜ」それだけ言って、セルージャは踵を返した。


 迷宮に帰ったセルージャは、「墓石都市」と呼ばれる迷宮の書庫に赴いた。今までこんな場所には足を踏み入れたこともなく、果てしなく並ぶ碑石の中から目指す情報を探し出すのにはとことん骨が折れたが、半日もたった頃ようやくのことで緑腐病に関する記述を見つけ出した。記述は至って簡素なものだった。

〈緑腐病:オールド・ワールド。混沌の神ナーグルの加護によって生まれる伝染病。感染から数週間で全身に腐臭を放つ緑色の斑点が浮かぶことからこの名がある。斑点は徐々に広がり、およそ三月で全身を覆い、間もなく死に至る。人間の間では治療法は発見されておらず、感染者が一人でも出ると即日に近隣一帯を焼き払う風習になっている〉

 当然のことだが、そこには人間のための治療法など書かれていなかったし、セルージャもそんなものを捜しはしなかった。



 三回目に訪れた時、男のローブの裾からもはや靴は覗いていなかった。

「やあ。とうとう足が無くなってしまったよ」男は相変わらずこともなげに言い、セルージャももはや驚かなかった。

「緑腐病の斑点は全身に巡るそうじゃねえか。上半身は平気なのか」
「頭と手がないとものが書けないのでね。聖水をがぶ飲みして、どうにか病状を遅らせている」

 部屋の隅には山ほどの水袋が積み上げられていた。セルージャ程の魔族になるとどうということはないが、気にくわないオーラが発せられているのを感じる。確かに聖水のようだ。他に食料らしきものが見当たらない所を見ると、この水以外には何も飲み食いしていないらしい。そして水袋の山の隣には、それに数倍する高さの、蝋板の山が整然と積み重ねられていた。

「……すごい量だな」セルージャが、素直な感想を述べた。

「十一人分のカルテだからな。緑腐病は紙も腐らせるから、こんなものに書かなけりゃならない」

 セルージャは手近な蝋板を一枚、手に取ってみた。

「何が書いてあるんだ、こりゃ」
「患者の毎日の体温、血圧、心拍、皮膚や眼球や内臓の変化、自覚症状、投薬その他の処置とその結果、所見……等々。医学語だから、専門家でなければ意味が分からないだろう」実際、セルージャには何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。

「で、治療法は見つかったのか?」
「いや、全然。データだけ溜まっていくばかりだ」
「何だ、そりゃ?」セルージャは唖然とした。「そんな無駄骨、よく続けてられんな」
「無駄ではないさ。私が発見できなくても、いつか誰かがこの記録を読み、答えを見つけるかも知れない」
「いつかったって……お前が死ぬまで記録をつけたら、それで終わりじゃねえか。誰がこいつを読むんだよ」
「人を頼んである。我々が全員死んで、混沌の瘴気が抜けた頃にここへ来て、これをエンパイアまで運んで貰うように」

 もはや完全にセルージャの理解を超えていた。一体この人間は、自分の命を何だと思っているのだ。精一杯の皮肉を込めて、セルージャは言ってみた。

「お前が死んだ後にオレがここへ来て、こいつを全部ぶっ壊したらどうする?」

「そいつは困るな。身体が動く内に、君に見つからない隠し場所でも考えるさ」男はニヤリと笑い、そう言った。






 セルージャは自分でも理由が分からぬまま、一週間ほどの間をおいて、定期的にその男の小屋を訪れるようになった。
 かしいだ小屋の戸をくぐる度に、記入済の蝋板の山は高さを増し、男の緑腐病は確実に進んでいった。二週間目に男の手は動かなくなり、腕にペンをくくりつけて書かねばならなくなった。次の週には腸が腐り、食物を受け付けなくなった。

「それでも、思ったよりは長く保った」平然と、しかしさすがに力の無い声で、男は微笑った。

 そうして、一月が経った。
 かつて男の肉体だった物質の、かなりの部分が濁った粘つく水たまりとなり果てて椅子の脚下に淀んでいた。芋虫のようになった身体を椅子の背に巻きつけるようにして、男はペンを……もはや両腕も使いものにならないので……口にくわえて字を書いていた。
 セルージャは蝋板の山に腰をかけ、黙ってそんな男を眺めていた。四肢を失い、文字通り死ぬほどの努力を払ってペンを動かし続ける男を、手伝おうと思ったことはない。男もまた、助けを乞うたことはない。ただ一度、男が床に落としたペンを、拾ってやったことがあった。男は礼を言ったが、何と言ったのかは聞き取れなかった。喉も腐っていたのだ。


「……なあ」


 人間離れした後ろ姿に、セルージャはふと声をかけた。頭の動きが止まり、初めて会った時が溌剌としていたと思えるほどにやせ衰えた顔が、ゆっくりと振り返ってこちらを見た。

「お前、一体なんでこんなことをしてる。名誉のためでも良心のためでもないなら何が、お前を動かしてるんだ」

 以前にも同じ事を訊かれたな。そう、男の眼差しは言っていた。男の沈黙の言葉を理解した、と示すために軽く頷きながら、セルージャはなおも続けた。

「魔族のオレには理解できない、とお前は言った。理解できなくてもいい。オレは知りたい」

 男はセルージャを見つめたまま、しばらく答えなかった。胸のあたりがゆっくりと数回上下し、何度目かで大きく膨らんだと思うと、腐った喉から出るにしては驚くほど明瞭な声で、男ははっきりと言った。

「悔しいからだ」

 セルージャにしてみれば、かなり意外な言葉だった。「悔しい?何が?」

「弱いことがだ。人間が弱く、命がもろいことがだ。病が、死が、混沌が、魔物が、災いという名で呼ばれるすべてのものがこんなにも強大であることが、俺はたまらなく悔しいのだ。だから、俺はこの筆で、人類を一歩でも、半歩でも高みへと引きずっていきたいのだ。この忌々しい緑腐病という奴を、いつか足の下にふまえ、見返してやるためにだ。俺の、いや人間という存在の上にのしかかっている、この得体の知れない重苦しい、この、弱さという名の悪意を。ほんのわずかでも、切り裂いてやるためだ」

 そこまで一息に言うと、男は少しだけ気恥ずかしげに笑い、それからガクリと首を垂れて動かなくなった。

 確かにセルージャには理解できなかった。しかし同時に、その洞穴のような両の瞳に凛々と燃える光を見て、セルージャは悟っていた。
 この男は戦っていたのだ。
 
 一方の手にペンを握り、もう一方の手には己の命を丸ごと握り締め。炎を上げる己の頭脳をただ一つの武器として、セルージャには想像も付かない戦いを、この男は戦っていたのだ。

 自分がなぜだか分からないままこの小屋を訪れ続けたのは、このためだったのか。

 男のか細い息が聞こえた。セルージャは、蝋板を傷つけないよう注意深く立ち上がり、そっと外へ出て、壊れかけた扉を静かに閉めた。



 次に小屋を訪れた時、それはもはや男ではなく、ただ緑黒色の悪臭を放つ塊が、机から椅子にかけて広がっていた。
 机の上には、おそらく意識を失うまで書き続けていたのであろう最後の蝋板が、黒い粘液に覆われていた。そのわずかに覗いた隅の部分に小さく、

〈名も知らぬ魔族へ〉

 とあるのを見つけ、セルージャは腐汁の中からそれを手に取った。


〈名も知らぬ魔族へ。君に見つからぬ隠し場所は、とうとう考え出すことができなかった。ペンが動くうちに、礼を述べておかねばと思う。君の訪問は私にとって、少なからぬ支えになった。君もまたこの病身から、僅かなりとも何がしかを得たのであることを願う。
 君の名を一度も訊かなかったのが、いくらか残念だ。もし、私の名を知りたければ、どれでもカルテをめくってみるといい。右下隅に書いてあるのがそう……〉


 短い文章はそこで途切れ、最後の文字には歯形のついた鉄筆が突き立ったままになっていた。セルージャは蝋板の山から一枚取り、右下隅を見た。そこには確かに、一つの名前が記されていた。何の変哲もない、平凡な、エンパイアの人間の名前だった。

「……オレの名は、セルージャ」

 机の上に黄土色に変色した頭蓋骨の、虚ろな眼窩に目を合わせ、セルージャは静かな声で呟いた。

「セルージャ=ガレリア=ストラストヴァロスだ」

 魔族が己の真の名を他者に明かすことは滅多にない。まして、人間には。己の戦いを戦い抜いて死んだ戦士に捧げる、それはセルージャの最高の敬意だった。






「……そういや、お前ら。こんな長いことさぼってて、大丈夫なのか、神殿の方は?」

 メランが放り投げた紅茶を入れ直し。改めて整えられたティータイムもそろそろ終わろうかという頃、思い出したようにセルージャは口を開いた。

「あ、今日はお休みなんです。ザラ様も戦士様も、お館を留守にしてらっしゃいます」

「ふーん。ルキナと喧嘩してる割には呑気なもんだな」

「あ、ルキナの所も今日は誰もいないよ」メランがクッキーを呑み込み、口を挟んだ。「何だかね、二人して古巣に戻ってるみたい」

「へえ?またなんで」

「えーとね、ルキナの御主人と仲の悪い神様がね」メランは最後のマドレーヌを素早く浚い取り、メリンの手からそれを守りながら「最近力が弱ってきてるんだって。だからこの隙に一気に攻めて潰してやろうとか、そんな話で呼ばれてったと思ったけどこら、メリン、そこは反則!」
「やー!ボクもけーきたべたいもーん!」

 取っ組み合いになったメリンとメランを心配そうに横目で伺いつつ、リサリアが後を受けた。どうやらこういう説明ごとはルカルナより彼女の方が得意らしい。

「あの、ヴァイアランス様、オールド・ワールドではスラーネッシュ様と仰有るんですが、スラーネッシュ様と対立している、ナーグルという混沌の神がいるんです。いろんな疫病とかを武器にして勢力を広げていたんですが、中でも一番エンパイア中に広がっていた『緑腐病』っていう病気の、特効薬を人間が発明しちゃって、それで今ナーグル陣営は大混乱……って、あの、どうかしましたかセルージャ様?」

「え?いや、何でもねえよ」セルージャはあわてて手を振った。「……十二年もかかったのか。やっぱり、人間ってのは情けねえ連中だぜ」

「十二年?」レイシャも小さく首を傾げて、セルージャの顔をのぞき込む。

「何でもない、何でもない! さあて、オレはそろそろ帰らせてもらうか。レイシャ、ごちそうさん。ルカルナ、さっき言ったこともう少し考えて、暇ができたらオレんとこへ来てみな。スパー相手も読み物も売るほどあるぜ」

 慌ただしくティールームを飛び出して、亜空間回廊へ入り、星に似た輝きの流れる中を、今は彼女の住処であり故郷となった墓石都市へと走って行きながら。
 緑腐病のなくなったエンパイアを、こんどこそ訪れてみようかと、セルージャはそんなことを考え、すぐに忘れた。




 セルージャ=ガレリア=ストラストヴァロスが、天来の武道家でありながら魔導看護婦という、およそ武道とはほど遠いキャリアを選んだのには、大抵の人が自分のキャリアを選ぶ時そうであるように、いくつもの理由がある。

 例えば、死と静寂が好きだったから。
 例えば、生と躍動が好きだったから。
 例えば、何度壊しても自前で復活するアンデッドなら修業相手に丁度いいから。

 例えば。
 例えば、己の命を燃やすことを知っていた枯れ木のような人間の医師の姿が、記憶の片隅に、残っていたからかも知れない。



                                         〈終劇〉



語注
・魔メイドの装い…『魔界服飾ハンドブック'99』によれば、普通のメイド服と魔メイド服の一番の違いは、後者は必ず胸が露になっている点にあるという。

・魔ホガニー…仙ダン科の魔界熱帯樹。深く艶やかな暗褐色の光沢を持ち、高級木材として名高い。レイシャのティールームにあるテーブルは、南の魔山テトラメドラから伐り出された十七万年ものの最高級品。

・墓石都市…この時にはまだ、セルージャは守護者になっていない。また、魔導看護婦の資格も持っていない。