守護者小説

セルージャ・ティー=トゥー=イェンの章 (作・玄魔)

 玄魔さんよりいただきました小説を、感謝を込めて全文掲載させていただきます。なお時代設定は、パルボIQ襲来直前の頃です。


 Rebis猊下に捧げる墓石の碑文 一



 守護者セルージャの実り多き一日

 "A DAY OF CALM BEFORE"






 墓碑が砕けた。
 人か、獣か、神か、魔か、石に刻まれた一つの生が砕けて消えた。
 別段珍しいことではない。塵より生まれて無に還る、時の理からは誰も逃れられない。千年の巌に己を刻んでみたところで、束の間のあがきに過ぎない。まして、この混沌と刹那の統べる大迷宮において、〈記し〉など一体どれほどの意味を持とうか?

「……気に入らねェ。ああ、気に入らねェ!」

 また一つ、魔岩の砕ける音がした。そう、万物の定まらざる、留まらざるが混沌の掟……

「こんちくしょーーーっ!」

 ……どうもそういうのとは少し違うようである。

 ここは迷宮第三層。死せる命、死せる記憶、死せる言霊の群成す墓石都市、その名をネクロポリス。そしてこの静かなる都市の守護者、生を裂き死を砕く美しくも武烈なる性魔セルージャ=ガリリャ=ストラストヴァロスは、

「あンのザラとかいうアマ、何様のつもりだッ!! わけの分からねェ霧だか撒き散らしたかと思えば、神殿守護者の座ァ賭けてルキナと聖戦だと!? 勝手に上がり込んできてふざけたコト抜かすんじゃねェってんだッ!!」

 そりゃもう怒り狂っていた。


 見渡せば周囲は瓦礫の荒野。骨や腐肉も散見するところからして、墓石のみならずこの都市の住人達もいくらか巻き添えを喰ったようだ。一字彫るのに三年かかると云われる硬魔岩の石碑群も、しかし怒れる魔神の激情を受け切るには足らなかったらしく、荒野の中心に立つ彼女の両拳は未だ振り下ろす先を求めて朧なオーラを立ち昇らせていた。

「糞ッ! 無駄に壊しちまった。また減給かな……ああもう、ちょっと下行ってくるからな!! お前等オレが帰るまでにここ片付けとけよッ!!」

 荒野の外縁のあたりを恐る恐る迂回していた不幸なアンデッド少女の一群にそう怒鳴りつけると、セルージャは最寄りのゲートの方角へと瓦礫を踏み砕いて去っていった。


 後にはただ、廃虚だけが残った。
 別段珍しいことではない。時の理とかそういうのは関係なく、超武闘派の魔導看護婦を主に頂いてしまったこの墓石都市では。



「たァりゃぁァァァァ!!」
 魔岩を砕く無敵の拳は、しかし軽く弾かれ空を打った。がら空きになった脇めがけ、電光のような突きが束になって飛来する。音より速く繰り出され、込められた大魔力によってほの白く光る拳は、常人の目にならば正しく雷の束そのものにさえ見えるだろう。
「ぐッ!」
 返す肘でほとんどは凌いだが一発脾腹をかすめた。それだけで、ずしりと重い痛みが拡がる。慌てて後方へ飛びすさり、一拍間合いを取ったつもりが。
 吸い付くような手刀がひたりと胸元に迫っていた。
 戦慄が喉まで上がってくるより早く左腕を動かす。薙払ったオーラの軌跡が消えない先に今度は右から唸りを上げて廻し蹴りが飛んでくる。反射的に腰を落とし、右腕の甲で受け流そうとするが豈に計らんや、受けた瞬間にものすごい衝撃が全身を貫き、たまらず横ざまに吹っ飛ばされた。
 しかしそこは天来の武術家、拳で地を打ち鮮やかに宙返り。ただ一挙で体勢を立て直すと更に地を蹴って今度は一気に攻勢へ転じる。相手の突きが雷ならばこちらのそれは炎。吹き上げる紅炎のごとき轟烈な拳が渦を巻いて襲いかかる。しかし、あるいは紙一重で躬され、あるいはゆるりと受け流され、風が柳を打つように痛打を与えることができない。
 もどかしさは焦りを生み、焦りから隙が生まれる。ジャブの連打で牽制し、左脚を大きく引いて一気に矯めた蹴撃でケリを付けようとしたが、その時、脾腹の痛みのせいでほんのわずか踏み出しが遅れた。一瞬の隙を逃さず、奇跡のように舞い込んでくる手刀。微風のように自然な軌道の中に秘められた恐るべき破壊力は、まともに喰らえばセルージャとて胴が真っ二つになる。
 だが、結論から言えば、その隙こそ誘いだった。故意に遅らせた膝と、牙のような左肘とが顎門の如く手刃の切っ先をがっきと封じ、背に隠した反対側の拳を十分に矯め終えたセルージャが壮絶に微笑む。
「もらったァッ!」箍より放たれた拳は嵐のように、相手の鳩尾めがけ一散に突き進む!

 瞬間、轟音が迷宮を貫いた。
 天井までも巻き上がる火の粉と土煙がようやく晴れた時、そこには。

「……いいや、やれんな」
 セルージャの渾身の拳は見事に受け止められて掌の上で黒煙をくすぶらせ。代わりに、無造作に上げられた相手の膝が深々と下腹にめり込んでいた。
「…………ちぇ」
 唇の端が小さく歪み、ゆっくりと膝の力が、それから順に全身の力が抜けていった。



 迷宮第七階層、〈地獄〉と呼ばれる業火の海。その片隅に、小さな庵が結ばれている。洞穴を利用し、枯骨と竜革で慎ましくしつらえたその中に今、二人の姿があった。

「少しは発散できたか」

 ティー=トゥー=イェンは、振り向きもせず唐突に言った。あれから数刻、地獄全土を揺るがすほどの試合をさらに数セット打ち合ってなお髪一筋も乱さない、七守護者中最強を誇るチャイニーズ・デーモン。居住まいを正して愛剣の手入れをするその横で、セルージャは大の字になって荒い息をついていた。普段は襟まで閉じた白衣の胸元を広く開け、大きく上下する褐色の肌に光る玉の汗が美しい。

「ああ、大分。サンキュ…………、判ってたのか」
「お主の思惟は読み易い。すぐ顔に出る」
「うるせえ」力無く苦笑いが漏れる。
「気が直ぐなのは善い性だ。だがそれだけに、一度躓けば起くるに難い。心の淀みを払うために来たのなら、気の澄むまで相手をしよう」
「…………なら、折角だから色々教えてもらっとくかな。
 とりあえず、だ」

 白衣の天使ならぬ白衣の魔族はゆっくりと身を起こし、どす、と音を立てて渋い柿色の毛氈に拳を突き立てた。その瞳にすでに笑みは無い。武道家の眼、求道者の眼だ。

「オレとあんたで、パンチ力は同じくらいの筈だ。なのに、なんでオレの拳は簡単に受けられて、あんたの拳はあんなに腹に堪えるんだ?」

 その問いを予想していたのか、答えの代わりにイェンは、先程セルージャの拳を受け止めた左掌を彼女の方へ向けた。掌にはまだ黒い焦げ跡が残っているが、数刻もすれば消えるだろう。

「この意味が分かるか」

 と、言われたところで分かる筈もない。眉根を寄せるセルージャに、数千年を生きた仙界の魔はさらに謎めいた言葉を続けた。

「お主の拳は極みが過ぎるのだ。どれだけ拳力があろうとも、打った所しか撃てぬのでは皮一枚焦がすのが関の山よ」
「?……打った所にダメージが行くのは当たり前じゃねェのか? 腹を殴って首が折れるかよ」

 チャイニーズ・デーモンは静かに瞼を伏せ、ほんの微か首を左右に振った。傍目にはいきなり目を瞑っただけにしか見えないが、これが彼女流の否定の仕草なのだ。人魔を問わず東方生まれというのはなんだって皆こうも表情が読み難いのだろうとセルージャがいつものごとく思っていると、美しい鈎爪がすっと上がって庵の背後の壁を指し示した。

「あれを見ろ」

 そこには、古びた、などという形容では効かないくらいの年月を経、美しい飴色に化石した一服の掛軸が下がっていた。古物のことなどセルージャはまるで分からないが、この掛軸が作られたのが歴史というよりむしろ考古学の領域に属する時代だろうことくらいは判る。だが、それだけの星霜を重ねながらもその面には今なお墨痕も鮮やかに、複雑で流麗、かつ力強い古代東海の文字が十字、黒々と記されていた。


〈不 極 則 残 極
 極 極 則 無 極〉


 ……が、セルージャにそんなものが読めるわけは無かった。

「何だ、こりゃ」
「私の母界の文字だ。〈極まらざれば則ち極み残り、極み極まりて則ち極み無し〉と読む」
「……ますます分からねェ」

 元々、必要以上に頭をひねるのが苦手だから武闘家などやっているのだ。顔中で疑問と難渋を示すセルージャに黒き守護者はくすりと笑い、手入れを終えた灼炎剣を刀掛に戻すと彼女の方へ向き直り居住まいを正した。

「今、お前がこの壁を打つとしよう。打った瞬間、お前の拳の威力は壁に伝わり、伝わって後結集し、破壊力となる。これが極みだ」

 言ってイェンはつと左手を挙げ、握った拳で横の壁を打った。剥き出しの煉岩が鋭い音と共に砕け、人の頭ほどの窪みが穿たれる。この程度なら何の驚くこともない。ちょっと力めばメリンでさえできるだろう。

「何も考えずに打っておれば、伝わった威力は瞬刻を措かず拳の直下に極まり、それで終わりだ。
 だが、壁に伝わった威力は、極まる前にほんの一刹那、壁全体に遍く満ち渡る。この、打から極までの雲耀の間に壁の中に満ちる威力を捉え、それを望む場所へ結集させることができれば」

 イェンはもう一度軽く拳を作り、先程穿った穴から少し離れた位置をもう一度軽く打った。
 途端、セルージャの真後ろの戸口に掲げてあった松明が勢いよく弾けた。

「!!」

 拳から戸口までの距離、約七尺。気塊を青白く練り出して撃つ、いわゆる「飛び道具」を用いれば楽に届く距離と威力ではある。だが、そんなものとは明らかに違う。

「判るか? これが〈極み〉だ。極まらねば破壊力は生まれないが、打った先から極まってしまえば表面を撃つことしかできない。我が流派、無極伐皇紅錬拳の神髄はこの〈極み〉を極めて無極に至り、打と撃を自在にすることにある」
「………つまり、腹を殴って首でも折れるって訳か。極みが過ぎるってのは、オレが何も考えないで打ってるから、すぐに表面に威力が極まっちまって芯まで届かないってことかい」

 自分の拳をじーっと見つめて握ったり開いたりしながら、考え考え紡ぎ出した言葉にイェンは……彼女としては極めて珍しいことに……にこりと満足気に微笑んだ。

「そうだ。お前はやはり呑み込みが早い」

 遥か東の海から来たこの神秘的なデーモンがこんな風に微笑むことなど……まして誰かを誉めることなど滅多にない。へへ、と照れくさそうに頭を掻いたセルージャだが、その時ハタとあることに思い至った。

「あ……そうするとこの前、あの何とか言うピエロ野郎が五体バラバラになったのも、ひょっとしてあんたかい? ルキナの寝所に忍び込もうとして扉に触った途端、誰もいねえのにいきなりメッタ斬りにされたっていう……斬り口があんたの五咬斬奸剣に似てるってんでみんな不思議がってたんだけど」
「あの時丁度下層炎が不安定で、ここを離れるわけに行かなかったのでな。危急の策だが、そう難しいことではない」
「…………凄ぇや」

 なんとも事も無げに返ってきた返答に、思わずヒューウッと低い口笛が漏れる。

「東洋の武術には、あんまり興味なかったんだけどな……極めて無極に至るってのは、そんなことまでできんのか」だが、イェンは再び首を振った。
「私など無極の境地には程遠い。我が師父はかつて、星の北極を打って南極を崩したという」
「師父って……天何とかいうおっさんのことかい。凄ぇ武道家らしいけど……あの爺ィの仲間なんだろ? どうもなぁ」

 セルージャの脳裏に、助平たらしい笑みを浮かべた小兵の老人の姿が浮かぶ。この広い魔界で唯一人、彼女の尻を触って生き長らえている男魔族。太くたくましい双眉の間に盛大に寄りまくった皺を眺めやり、どことなく可笑しそうに、

「無角師父は求道の苛人だ。あのような色餓鬼道の御老と一緒にするな」

 こちらはこちらでさらりと酷いことを言う。深意測り難き黒瞳の守護者は一旦置いた灼炎剣を手に取り、澄ました顔で本題に戻った。

「そもそも拳の威力も斬の威力も、遍と極との二相を備えるという点において変わりはない。否、威力だけではない、およそ事物を伝い渡る波動の形象たれば本性この二相を持たざるは無く、熱凍雷の三気に始まり音声明光天派龍脈、哭の波より愁の風まで、すべからく遍ありて渡り、極ありて結び、極み極めれば無極に至る。如かして俗に天命、地運と称されるものもまた同じ。
 お主の運佑は今遍の相にある故に、日々心を結ぶようなことが何一つ起きぬ。それを以て己が、沸隆絶えぬ昨今の迷宮の中で埒外に置かれているように感じているのだろう?」

 立て板に水を流すような蕩々たる講釈から突然イェンは矛先を切り替え、ずばりと切り込んだ。音声明光、のあたりから既に理解力をオーバーして素流ししていたところへ意表を……ついでに図星も……突かれたセルージャは褐色の頬を真っ赤に染めてうろたえる。

「えっ!? なっ、あ……お、オレは別に」
「案ずるな」チャイニーズ・デーモンは不思議な表情で頷いた。「お主の天命が極の相を迎える秋もいずれ訪れる。恐らくは、そう遠からぬ内にな。……その時、私がここにいるかどうかは分からぬが」

 セルージャはその瞳を見た。しかし、その瞳はセルージャを見てはいなかった。
 こちらを見ていながら、自分を通り越してその彼方にあるものを見据えているような瞳。まるで、ここに自分が……あるいはもしかして、彼女が……もはや存在していないかのような。紡がれた言葉の不吉に予言めいた内容以上に、その瞳に、この剛直な武闘家は言い知れぬ不安に襲われ、思わず身を乗り出して詰問していた。

「……どういう意味だよ。それ」

 チャイニーズ・デーモンはその問いには答えなかった。
 ……代わりに、ニヤリといきなり人の悪そうな笑みを浮かべた。

「……先刻も言ったように、心の思いも幾分か波動の性を持つ。気が直ぐなればその性直順にして捉え易し。お主の如きに至っては、まるで胸の奥から絶えず本心をがなり立てて歩いておるようなものよ。
 例えば、お主が毎晩誰と、何を思いながら己の肉剣を揮っておるのか、とかな」
「!」

 セルージャがもう一度真っ赤になった。だが今度はすぐに立ち直り、凛とした瞳がとろけるような艶っぽい光を帯びる。

「…………へえぇ。そういえば、あんたのその一物も、ヤケに下腹に響くと思ってたんだ。一つ、そっちの方も教授して貰おうかな」

 戦い疲れて大の字になっていた間でさえ萎えることを知らなかった逞しい股間のものをやわらかに撫でさすりつつ、白衣の看護婦はゆっくりと立ち上がった。その眼はもはや求道者の眼ではなく、混沌の快楽を求める両性具有者の眼だ。
 対するイェンもまた、この上なく淫蕩な微笑みでこれに応えた。

「………言った筈だぞ。今宵は気の澄むまで相手をする、とな……」

 長い爪の先が軽く床を弾けば、先程吹き飛ばされなかった方の松明が音もなく掻き消えた。ただ戸外で燃え盛る地獄の炎のみが照らす、幻想的な昏い朱色に染め上げられた薄闇の中、二つの影は一つになり。後にはただ、絡みあい求めあう肉と欲の淫らな宴だけがあった。




 数日後。
 迷宮内の至る所で、誰もいないのに突然拳撃が炸裂するという怪事件が頻発した。お気に入りの壷を壊されて怒り心頭に発したレイシャの手で事の真相が突き止められると、真犯人……当然ながら……セルージャ=ガリリャ=ストラストヴァロスは全守護者一致で当分の間無極伐皇拳の修業厳禁を申し渡されたと云う。


                       〈終劇〉